必要なことは強情を張ることではなく、悔い改めを示すこと
エホバの証人は、協会によるバプテスマを受けるとどんどん心が劣化していくのだと、最近強く思う。自分が学んでいる立場であることを自覚している研究生のころが、一番よいのではないでしょうか。
僕たちは、聖書は実際に何を教えていますかで、悔い改めについて学びます。けれども、この悔い改めは、バプテスマを受ければもう終わったと考えるようになるようです。
僕たちは、伝道にでかけて、悔い改めを宣べ伝えるのに、エホバの証人のほうでは、悔い改めをぜんぜん行っていない。そういう状況にあるように見えます。
エホバの証人の多くは、心の頑なさを信仰だと考えているようにみえます。現在の信条を確固として維持すること、この強情さを信仰ととらえているように見えます。
さて、頑なさや、強情さは、信仰なのでしょうか。聖書から見てみましょう。
柔和な者たちは食べて満ち足り,
[神]を求める者たちはエホバを賛美します。
あなた方の心が永久に生きつづけますように。
(詩篇 22:26)
さて、評価されているのは柔和さです。柔和さというのは、心のやわらかさです。心をやわらかくできる人たち、そのような人が、食べて満ちたりると書かれています。
それでは、柔和さこそが信仰なのではありませんか。心の頑なさや強情は、信仰なのでしょうか。どうして、エホバの証人のみなさんは、聖書が、柔和さを評価しているのに、心の頑なさを信仰のように感じておられるのですか。それが不思議でなりません。
僕は、エホバの証人のみなさんに率直に言いますが、みなさんに必要なことは、悔い改めを再び示し、心の柔和さをとりもどすことです。その心の状態を、神はごらんになります。
どうして、神の民を名乗るみなさんが、神の前にあって、心の頑なな民となってよいでしょうか。イエス・キリストが宣べ伝えたのは、まさに、悔い改めではなかったのですか。それとも、バプテスマを受けてから、長い時間がたったので、もう忘れてしまいましたか。
さて,ヨハネが捕縛されたのち,イエスはガリラヤに行き,神の良いたよりを宣べ伝えて,こう言われた。「定めの時は満ち,神の王国は近づきました。あなた方は悔い改めて,良いたよりに信仰を持ちなさい」。
(マルコ 1:14-15)
必要なことは、家族や人々に対して、心の頑なさを示すことではなくって、自分自身の心が悔い改めを示し、心の柔和さを取り戻すことではありませんか。僕は、何か間違ったことをいっているでしょうか。