平安の実を生み出す

 やっぱり祈りは必要だと思う。祈りは、心を平安にすることを促してくれる。自分が正しいという信念で叩き合っても、そこには、何も建設的なものも、よい結果も生まれることがない。

 キリストは「木は実によって見分けられる」といった。たとえば、ひとつ適用すれば、「主張の正しさは、生み出している結果を見ればわかる」ということだ。

 最初、その木には価値がないと思いこむかもしれない。また、ある木には、価値があると思い込むかもしれない。何が、良い木であるのか。それは、実によって知られるということだ。

 心の柔軟な人は、その実を見て引き返します。心の意固地な人は、現実を見ても、自分の主張を続けます。

一方,霊の実は,愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,温和,自制です。
(ガラテア 5:22-23)

 たとえば、その実は、自制を生み出しているでしょうか。その実は、温和を生み出しているでしょうか。エホバの証人には、この点において、勝ったものがあります。

 もし、ものみの塔協会を批判し、追及するならば、この点で、僕たちもまた立派である必要があります。そうでなければ、現役のエホバの証人の心をとらえることはできないでしょう。

あなた方に言っておきますが,あなた方の義が書士やパリサイ人の[義]より豊かにならなければ,あなた方は決して天の王国に入らないのです。
(マタイ 5:20)

 パリサイ人は、ものみの塔協会です。しかし、彼らは、集まりあう場所の平穏さという点では、僕たちよりもはるかに勝ったものを提供しています。もし、元エホバの証人が、温和さや平穏さにおいて、ものみの塔協会に劣っているならば、それは、良い関係を育てていくことはできないでしょう。