破壊のカタルシス

 悪者を、徹底的に滅ぼしたいという願望は、だれしもあるものだ。自分をいじめた悪者は、徹底的に滅びてほしい、ぼろぼろになってほしいという願望だ。革命的な願望、破壊的な願望、そういうものが、人の心の中にはある。

 これは、エホバの証人だけに見られるのではなく、エホバの証人を辞めた人にも、世の中の人にも、すべての人に見られる願望だ。ひどいことをされると、怒りに燃え立つ、そして、そいつを、ぶっ殺したくなる。そういう感情。

 敵に対して徹底的な滅びをもたらすことで、気持ちよいと思う感情。そういう感情を破壊のカタルシスと呼ぶ。

 破壊のカタルシスは、現代においては、社会的な品性によって隠されている。破壊を望むことは、罪悪として、価値づけられる。けれども、人間の本性を、とどめておくことはできない。

聖書における破壊のカタルシス

 僕は、最初復讐を望むダビデの感情が理解できなかった。でも、よく読むことで理解できたのは、現代社会は、破壊のカタルシスに罪悪の価値を与えているということだ。

 ダビデは、復しゅうを、肯定的にとらえている。

義なる者は復しゅうを見たので歓ぶ。
彼は足を邪悪な者の血に浸す。
そして人は言う,「まことに,義なる者のためには実りがある。
まことに,地に裁きを行なう神がおられる」と。
(詩編 58:10)

どうして諸国の民が,「彼らの神はどこにいるのか」と言ってよいでしょうか。
あなたの僕たちの流された血に対する復しゅうが,
諸国民の中で,わたしたちの目の前で知らされますように。

(詩編 79:10)

 復しゅうを望むことは、なんら間違った感情ではない。それは、公正の感覚を持っている人間にとって、自然な感情だ。悪が滅ぼされることを望んでもよいのである。

 けれども、復しゅうを行うことは、エホバのものです。その行動は、エホバのものなのです。

[わたしの]愛する者たち,自分で復しゅうをしてはなりません。むしろ[神の]憤りに道を譲りなさい。こう書いてあるからです。「復しゅうはわたしのもの,わたしが返報する,とエホバは言われる」
(ローマ 12:19)

 キリストにおいても、破壊のカタルシスがあります。パリサイ人に、ゲヘナを宣告します。

「蛇よ,まむしらの子孫よ,どうしてあなた方はゲヘナの裁きを逃れられるでしょうか。
(マタイ 23:33)

 このように語るキリストに、僕は、気持ちよさを感じます。パリサイ人は、滅びを逃れられないんだなと、そういう気持ちのよさです。キリストの裁きのときに、悪が滅ぼされるのは、気持ちのよいことだ。