復活については、預言者たちの時代にその話が登場する

 復活については、いくつかの誤解があります。そのひとつは、旧約時代に復活という観念は、存在しなかったが、イエス・キリストによって作られたというものです。イスラエル人は、復活なんて信じてはいなかったし、そういう観念もなかったというものです。

 けれども、この見解は明らかに間違っています。それは、イザヤが、復活について語っているからです。復活というものが、概念的に明確に語られるのは、イザヤ書です。

「あなたの死者たちは生きます。わたしの死体―それらは起き上がります。塵の中の居住者よ,目を覚まし,喜び叫べ! あなたの露はあおいの露のようであり,地が死んだ無力な者たちをも[生み]落とすからです。
(イザヤ 26:19)

 また、イエスが行った復活の業は、イエス自身の考えではなく、そのモデルは、エリヤとエリシャにあります。

それから,彼は三度,その子供の上に身を伸ばして,エホバに呼びかけて言った,「私の神エホバよ,どうか,この子供の魂をこの子の内に帰らせてください」。ついにエホバはエリヤの声を聴き入れられたので,その子供の魂はその子の内に帰り,その子は生き返った。
(列王第一 17:21-22)

 エリヤの記述とイザヤの記述は、エリヤのほうが古いです。

 ところで、復活に対する表現が最初に登場するのは、聖書のどの部分でしょうか。僕の記憶の限りでは、モーセが書いた書物、創世記、出エジプト記レビ記民数記申命記には、復活の記述はありません。この書のテーマは、イスラエル民族の将来の繁栄です。個人の復活というテーマはありません。

 実は、聖書には、イスラエル民族の繁栄というテーマ以外に、もうひとつの別の系譜があります。その出発点は、ヨブ記です。ヨブ記は、イスラエル民族の話ではないのに、なぜか、聖書の一部なのです。

 ヨブは、東洋人です。また、モーセ五書ではまったく語られない、サタンという存在も登場します。ですから、聖書の系譜の始まりには、ふたつの書物があります。それは、モーセ五書ヨブ記です。モーセ五書は、イスラエル民族についてのお話です。

 一方、ヨブ記は、神とヨブ個人がテーマになっています。ヨブは、東洋人であって、イスラエルではないのです。しかし、イスラエルは、ヨブ記を、聖書に組み入れました。

 ヨブ記の中には、次のような表現があります。シェオルとは、墓のことです。

ああ,あなたが私をシェオルに隠し,
あなたの怒りが元に戻るまで,私を秘めておき,
私のために時の限りを設けて,私を覚えてくださればよいのに。


もし,強健な人が死ねば,また生きられるでしょうか。
私の強制奉仕のすべての日々,私は待ちましょう。
私の解放が来るまで。


あなたは呼んでくださり,私はあなたに答えます。
ご自分のみ手の業をあなたは慕われます。
(ヨブ記 14:13-15)

 おそらく、これが、聖書における復活の表現の最初の部分です。モーセ五書ではなく、ヨブ記です。

 ここで、わかるのは、聖書という書物は、純粋にイスラエルだけのお話ではないということです。東洋人であるヨブ、個人としてのヨブと神の関係、そういう話が、聖書の後ろの部分でテーマとして現れてきます。つまり、異邦人と神とか、個人と神とか、そういう話が、再び登場してきます。

 現代の聖書の配列では、ヨブ記は、エステル記の後にありますが、ヨブ記は、もっともっと古い時代の書物で、モーセ五書と同時代の書物なのです。