死ぬときには何も携えていくことができない

 古代のイスラエルの王様である人物にソロモンという人がいます。ソロモン王は裕福で、さまざまな所有物を持っていましたが、それに満足することはできませんでした。

 人の中で最高の栄華を誇っていましたが、その彼が感じたものは風を追うようなむなしさであったといいます。

 自分のために蓄える富はむなしいものだと強く感じました。いくら富をためても、その富は死ぬときには、どこにも持っていけないからです。

 お金持ちであろうと、貧乏な人であろうと、正しいことをした人であろうと、悪いことをした人であろうと死という終局に人は向かって歩いていきます。

 死は何もない無の場所です。人はいやおうもなくそこに向かって進んでいきます。

 人は母の腹から出たときと同じように,また裸で去って行く。来たときと同じである。その骨折りに対して,自分の手に携えてゆけるものを何一つ運び去ることはできない。
(新世界訳聖書 伝道の書5章16節)

 死に際しては、人は何も持っていくことができません。

 伝道の書は、厭世的な雰囲気が漂う書物ですが、すべてがむなしいとソロモン王は言っているわけではありません。

 むなしいといっているのは、自分のために蓄える富についてです。

 反対に、神を恐れ、神が与えてくださったものを楽しむことが人間にとって最も良いことだといいます。

 ではエホバが与えてくださったものの中で、最大の贈り物はなんでしょうか。それは、イエス・キリストの贖いの犠牲です。

 イエスの贖いの犠牲によって、ソロモン王がだれもが死に向かっていくと嘆いた、その死が取り除かれて、わたしたちは命を得ることができます。

 すべての人の終わりは死ですが、エホバとイエスを信仰する人の終わりは命です。

 皆さんは、死に向かって歩いていくことを喜びますか、それとも命に向かって歩いていくことを喜びますか。