イエスの血による新しい契約

 世間一般では聖書というのは、新約聖書旧約聖書という区別がなされています。旧約聖書ユダヤ人の聖書で、新約聖書キリスト教の聖書だといわれたりもします。

 僕たちエホバの証人は、聖書を新約と旧約に分けて考えたりはしません。書かれた言葉によって区別することにしていて、ヘブライ語聖書、ギリシャ語聖書と呼びます。なぜでしょうか。

 聖書を分けて考えると意味がわからなる部分がたくさんありますし、神の目的は聖書の最初から最後まで変わりません。新約の著者たちも旧約のほうを聖書とみなしていますし、イエス自身も聖書と認めています。

 たとえば「アブラハムの胤によって諸国民を祝福する」という神に言葉について考えてみましょう。これは旧約聖書の方(ヘブライ語聖書)にでてきますが、この約束は今でも続いています。

 これは、アブラハムの胤であるイエスによって、諸国民に救いがもたらされるという預言です。神の言葉が果たされないで終わることはないということを考えると、ヘブライ語聖書(旧約聖書)に書かれた神の言葉も果たされないで終わることはありません。

 ヘブライ語聖書も神の約束の一部で、ギリシャ語聖書だけが神の約束なのではありません。エホバの証人は、よくクリスチャンというわりには旧約聖書を参照するといわれることがありますが、ヘブライ語聖書も神の言葉の一部です。

 イエスは新しい契約について語りましたが、それは旧約聖書に変わって、新約聖書聖典の地位を占めるという意味ではないのです。

 ではイエスが新しい契約といった場合の主要な意味はなんでしょうか。それはイエスのこの言葉が良く示しています。

 この杯は、わたしの血による新しい契約を表しています。それはあなた方のために注ぎだされることになっています。
(新世界訳聖書 ルカによる書22章20節)

 エホバのご意志は、アブラハムの胤であるイエスを通してすべての国民に救いの機会を差し伸べることでした。

 イエスご自身が、アダムを通してもたらされた罪と死を、人類から取り除くための犠牲となられました。

 エホバは、イエスの血に信仰を働かせる人たちを救うことをよしとされました。それでイエスは弟子たちには、「わたしが到来するときまで、わたしの死をふれ告げてゆきなさい」とおっしゃられました。

 これはイスラエル国民から見れば新しいものでした。なぜならそれまでは、イスラエル国民は、エホバと律法による契約をしていたからです。それが、イエスの血による契約に置き換えられました。そのような意味でこの契約は新しいものだったのです。