雇い主は早く来た人にも遅く来た人にも同じ賃金を払う

 もし1時間だけ働いた人と10時間働いた人が同じ賃金しかもらえなかったとしたら、その雇い主に対して不満を言いたくなるのではないでしょうか。

 もし自分がたくさんの働きをしていると考えているとすれば、それに見合った地位や役割を担うことを望むのではないでしょうか。

 自分には能力があって才能もあり努力も一生懸命しているのに、そうではない人と比べてお給料が安かったとすれば、不公平な気持ちを抱くのではないでしょうか。

 僕たちは世の中のそのような不満や怒りに囲まれて生活しているように感じます。

 では、エホバの見方はどんなものでしょうか。イエスはこんなたとえ話を弟子たちにはじめます。

 ある雇い主が朝早くに出かけていって、ぶどう園の耕作人を1デナリで雇います。第3時ごろになって、別の人をぶどう園で雇います。またもっと遅くの時刻になって、仕事を見つけることができなくて困っている人たちも、ぶどう園に雇い入れます。

 そして働き人たちが仕事を終えて戻ってくると、遅く来た人にも早く来た人にも1デナリの賃金を与えます。早く来た働き人は雇い主に不満をぶつけます。しかし、雇い主はこういいます。

 わたしはこの最後のものにもあなたと同じように与えたいのだ。わたしが自分の望むもので自分の望むことを行っても良いではないか。
(新世界訳聖書 マタイ19章20節)

 雇い主は、最後の人にも同じように与えたかったのだといいます。この雇い主はおそらくイエスで、働き人というのはイエスのために働いている人のことを指しているのでしょう。

 ここからわかるのは、エホバは少ししか働かなかった人にも同じように与えたいと思っているというというこです。そして遅く来た人というのは、仕事をサボっていた人ではなくて、仕事を見つけられなかった人です。

 事情があって多くの仕事をすることができなかったのです。イエスはそのような人に同情を示し、同じものを与えることで愛を示しました。

 この中でだれが一番多く働いたのでしょう。それは、雇い主であるイエスです。イエスは一番朝早く出かけていって、仕事を必要としている人を探してゆかれました。

 そして少ししか働くことができなかった人にも同じ報酬を与えたということは、イエスは自己犠牲を示されたということです。それに不満を述べることは神の義にかなったことではなかったのです。

 僕たちの兄弟姉妹の中にも、さまざまな事情ゆえに奉仕に多くたずさわることができなかったり、ある種の立場をあきらめざるを得ない兄弟・姉妹たちがいます。精神面、体力面で不安を抱える兄弟・姉妹がいます。

 それでも集会で話かけてくれて、元気付けてくれるとしたら、それはなんとすばらしい働きでしょうか。

 エホバとイエスはそのような兄弟・姉妹たちにも、同じように神の王国の祝福を注ぎたいと思っているので、僕たちはとても安心することができます。外面的な働きだけでなくて、心をご覧になられる方であるエホバが賛美されますように。