自分の義を自負したパリサイ人と悔い改めた収税人のたとえ話

 神の義を第一に求めなさいとイエスはいわれました。僕たちエホバの証人もエホバの義の基準の中で、生活できるように努力を払っています。

 でもときどきこんなことを強く考えることはありませんか。

 「自分は正しいことを行っている」「他の兄弟姉妹と違って聖書の助言をこんなにきちんと守っている」「エホバの証人は正しいことを行っている」「自分はこんなにたくさん奉仕や手伝いをしている」

 決して間違ったことを行っているわけではありませんが、もしこのような気持ちになるとしたら少し注意が必要です。実はこれはイエスがパリサイ人に対して忠告した態度そのものだからです。

 パリサイ人は自分のことを義にかなっているのだと自負します。

 「わたしは姦淫をしていないし、不義ではないし、ゆすりとったりしていないし、きっちりお金もおさめています。自分が収税人のような罪人に属していないことを感謝します。」というようなことを言います。

 ここでは、パリサイ人は何も悪いことをしているわけではありません。けれどもイエスは、自分の義を高めて、他の人たちを見下げる態度についてはよいと思っていません。

 一方、イエスがほめた収税人の態度についてみてみましょう。イエスは、この収税人をパリサイ人よりも義にかなっていると述べました。

 一方、収税人は離れたところに立って、目を天のほうに上げようともせず、胸をたたきながら、『神よ、罪人のわたしに慈悲をお示しください』と言いました。
(新世界訳聖書 ルカによる書18章13節)

 収税人は自分の罪のために、エホバがおられる天のほうに目を上げることができず、ただ胸をたたきながら、エホバに許しを請い求めました。自分の罪を正直に認めて、神の前で謙遜さを示しました。

 バプテスマを受けて、自分がエホバの義の基準にかなうようになると、自分が罪人であるということを忘れてしまいがちになります。実際に僕も自分の義を自負する傾向にあります。そしてエホバの証人はすばらしくて、エホバの証人ではない人はそうではないという感情を抱きがちです。

 そんなときは、人はエホバの貴重な創造物であるということを思い起こしてみます。イエスが、特に親愛の情を抱いたのは人の子であったという聖句を思い出してみます。

 するとエホバの証人でない人に対しても、エホバと同じような良い見方を持つことができます。

 また救いは自分の力ではなく、ただ神の憐れみにかかっているのだという聖句を思い出してみます。

 すると自分の力を誇るのではなく、神の前で許しを求める必要があるということを思い出すことができます。