「信仰によって救われる」ということの意味

 イエスは宣教期間中に、何度も何度も信仰のことについて述べました。「神」と「神がお遣わしになったイエス」に信仰を働かせるようにと言いました。

 信仰による救いとはどんなことなのでしょうか。聖書から調べてみましょう。

律法の業によって救われるのではなく、信仰によって救われる

 イエスの弟子であるパウロは、僕たちは「律法による業」、すなわち「律法が規定している行い」によって救われるのではなく、「信仰」によって救われるということをいいます。

 人が義と宣せられるのは律法の業によるのではなく,ただキリスト・イエスに対する信仰を通してであることを知っているので,このわたしたちでさえキリスト・イエスに信仰を置き,こうして,律法の業によってではなく,キリストに対する信仰によって義と宣していただけるようにしたのです。
(新世界訳聖書 ガラテア人への手紙2章26節)

 パウロは、救いは律法によるのではなく、イエスへの信仰であるといいます。僕たち人間はすべて罪を負っていますが、イエスへの信仰によって、エホバから「義なる者」とみなしてもらうことができます。

 僕たちエホバの証人に当てはめるとすれば、エホバが禁止されていることを守ったとしても、守っているということ自体で、救われるわけではないということです。

 救いのためには、神とイエスへの信仰がまず必要だというです。ですから、もし無理やりに神の義の基準に従わせたとすれば、その人には信仰がないので、その人は救われないということです。

 ですから、子どもたちを無理やりに神の義の基準に従わせたとしても、救われないということを覚えておきましょう。もしお子さんを愛しておられるならば、エホバとイエスへの信仰を培うことができるように育ててあげてください。

「信仰を働かせること」は「信仰を働かせていると言うこと」ではない

 ただ信じていますというだけで、救われるのでしょうか。「今日からイエスを信じます。わたしはクリスチャンです。」というだけで救われるでしょうか。

 イエス自身はこのようにいいます。

「わたしに向かって,『主よ,主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではなく,天におられるわたしの父のご意志を行なう者が[入る]のです。
(新世界訳聖書 マタイ7章21節)

 イエス自身は「主よと言う者」が神の王国に入るのではなく「父のご意志を行うもの」が入るといっておられます。

 パウロは行いによって救われるのではないといい、イエスは行いによって救われるといいます。さて、どういうことでしょうか。

信仰は行動によって証明される

 イエスはたとえ話の中で、木の良し悪しは、生み出す実によって知ることができるといいます。

 木はその実によって知られるのです。
(新世界訳聖書 マタイによる書12章33節)

 もし良い実がなったとしたら、その木は良い木だったということがわかります。もし悪い実がなったとしたら、その木は悪い木だったということがわかります。

 おいしい果実を生み出すならば、その木はとて良いものであるに違いありません。まずい果実を生み出すならば、その木は良くないものであるに違いありません。

 このたとえ話の中では、「実」とは「行動」のことで、「木」とは「信仰」のことだと思われます。

 つまり信仰は行動によって証明されるということをイエスは弟子たちにたとえで説明しました。

アダムとイエスの結末

 この点でアダムとイエスを比較してみるのは、とてもわかりやすいです。

 アダムは、豊かな楽園で夢のような生活をしていたのに、神の言葉を信じず、罪を犯したために、死にました。

 罪を犯したことで、アダムが神が言った言葉を信じていないということが証明されました。神がアダムに与えた結末は「死」でした。

 イエスは、地上でひどい扱いを受け迫害され続けましたが、神の言葉を信じたので、最後まで罪を犯さず、命を与えられました。

 忠節を保ったことで、イエスが神の言った言葉を信じていたということが証明されました。神がイエスに与えた結末は「命」でした。

 信仰によって命の救いがありますが、信仰は行動によって証明されます。これが聖書が教えていることです。