聖書から隠された宝を尋ね求めつづける
幼いころには、宝探しをする冒険を夢見てた方も多いのではないかと思います。隠されている宝を見つけるということはロマンがあります。
歴史上でも人類は、世界中を駆け巡って宝探しの旅にでました。金やダイヤモンドの鉱山を発見したり、新しい土地を求めて航海にでることもしばしばありました。
宝の発見は人類にとって、富や夢やロマンを与えるものでした。宝を見つけた冒険隊は喜びにあるれます。長い間捜し求めていた宝が見つかったからです。
旅の途中ではたくさんの困難があり、多くのものを犠牲にしたことでしょう。それを乗り越えてやっと宝を手に入れた喜びは格別です。
聖書の中にも宝を求め続けるようにという言葉がでてきます。どんな宝でしょうか。人間にとっての最大の宝、それは神の言葉のことです。
銀を求めるようにそれを求めつづけ、隠された宝を求めるようにそれを尋ね求めつづけるなら、そのとき、あなたはエホバへの恐れを理解し、まさに神についての知識をも見いだすことであろう。
(新世界訳聖書 箴言1章23節)
神のみ言葉である聖書を宝を求めるように調べていくと、神についての知識をも見いだすことができます。
聖書は良く調べ勉強している長老でも読むのがとても難しい本です。歴史的な背景を知らないとたとえの意味をうまく理解することができませんし、とても長いので骨が折れます。
イエスに関する福音書は比較的読みやすいですれけど、聖書を初めから読み始めると、ヘブライ語聖書の民数記、レビ記、申命記あたりはとても辛いなーと思ってしまいます。
イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書は、なんじゃこりゃーと叫びたくなってしまいますね。
でもこの聖句を良く見てみると、とても励まされる言葉になっています。「隠された宝を求めるようにそれを尋ね求めつづけるなら」と書いてあります。
そうです。聖書を初めからうまく理解することはできません。聖書全体を頭の中で思い浮かべて、自分の言葉で配列するためには、とても長い時間がかかります。
でもエホバは、理解力の優れた人にだけその道を示すのでしょうか。いいえ、そうではなく、「隠された宝を求めるようにそれを尋ね求めつづける」人にご自分の道を示されます。
エホバの証人の集会では、聖書を多く読むようにとは薦められません。そうではなくて、聖書を定期的に読むようにということが薦められています。
個人個人が聖書から良いものを見いだすために、聖書を読むことが薦められています。
理解力には個人差があります。うまく理解できないということで、歯がゆさを感じたり、他の人と比較して劣等感を感じる必要はないと思います。僕はなんてだめなんだろうと感じる必要もないと思います。
求められていることは、聖書を自分のペースで読み続けることです。理解できなくても、愛するエホバ神の言葉である聖書を、慕うようにして読むことです。
神の目的を聖書を使って知らせてくださっているという感謝が強くなると、少しづつでもエホバの言葉に接してみようという気持ちが強くなると思います。
また、聖書を読むことから助けを得ることができるように、イエスを通してエホバにお祈りしてみることも効果があると思います。