キリスト教に興味があってインターネットで調べている方へ 第8回 キリストは贖いをそなえる
キリストは贖いを備えましたが、どのようにしてでしょうか。イエスは、地上で宣教を行いましたが、宣べ伝えることのほかに、地上にきた大きな目的がありました。
それは、贖いとなって、人類を罪と死から解放するための手立てを差し伸べることです。アダムが犯した罪のために、人類すべては、死の奴隷状態に結ばれています。死からは逃れることができないで、どんな人も死んで行きます。
けれども、イエスに信仰を働かせる人に対しては命の救いがあります。イエスは、完全な人間として、この地上で処女マリアから誕生しましたが、アダムの犯した罪に対する贖いを備えることができるのは、イエス・キリストおひとりだけでした。
すべての人間は罪を犯しているので、完全な人間アダムが犯した罪を贖うことができず、ただひとり、イエス・キリストだけが贖いとなることができました。
「完全な人間の命には、完全な人間の命」という対応を埋め合わせることができるのはイエスだけでした。アダムの罪を埋め合わせることができるのは、イエスの死の犠牲だけです。
イエスが死なれたというのは、神の大きな愛の表れになっています。人が神に対して、罪を犯したのに、神はご自分のひとり子を、地上に遣わして、その死によって、人類を死から救出するための手段を備えられたからです。
だれが自分に犯した罪を許すために、自分の子どもを罪に対応する犠牲として差し出すでしょうか。そのような人は愚かな人としてののしられるでしょう。けれども神はそのような愚かな知恵によって、人を死から救うことをよしとされました。
それで、神の愛は、このイエス・キリストの犠牲において、豊かに表し示されています。み子を人類のために惜しまなかったという点において、神は人に対して愛を示しておられるのです。
それで、神の愛を知った今、僕たちは、自分の生き方を自分のために生きるのではなく、神のために生きるという選択をしています。といっても、自由がないという意味ではありません。神を愛し、神を愛する人を愛し、神の義を第一にして生きるという選択のことです。
神を知って、神を友としたので、神が憎まれることをしたいとは思いません。反対に、神が愛されることによって生きたいと思います。
では神は、どんなことを愛され、どんなことを憎まれるのでしょうか。
続く。