イエス・キリストの人物像 第5回 「イエスは人の子」
イエス自身は、自分のことをよく「人の子」と自称しました。イエスは間違いなく神の子でしたが、自分自身で自分のことを「神の子」ということはあまりありません。
サタンや悪霊や弟子たちやイエスの奇跡を目撃した人たちはイエスを「神の子」と呼ぶことが多かったですが、イエスご自身は自分のことを「神の子」と積極的に言うことはありませんでした。
福音書では、イエスは自分のことを「人の子」と呼ぶことが多いです。イエスご自身がこのことを強調していたように思えます。
イエスは、神の子として、天で生活していましたが、地上に来るために、人間として生まれ、人間として生活しました。イエスは、実際に人間として生活したので、人間が味わう苦しみをよく知ることができました。
人が抱える苦しみをまじかでみて、まじかに体験したので、人間の苦しみを知らない人ではありませんでした。そして、普通の人間として生きたのではなくて、もっともっと下に見られる立場で奉仕しました。
たとえばイエスは自分を、弟子たち従わせるためにきたのではなくて、弟子たちに奉仕するためにきたといいました。つまり、弟子たちに奴隷として仕えるという意味です。奴隷というのは、尊重されない身分です。
主人に対して、反抗したりはできませんし、主人のための当然のように働く身分です。けれどもイエスは、弟子たちに対して、奴隷として働く身分で、地上にきたのですといいます。
そして、イエスは人類への奉仕のために命までを差し出したのです。決してエホバの名前によって、自分を高めて弟子たちを服従させるということはしませんでした。それは偽善者パリサイ人に顕著な特徴でした。反対に、エホバを高めて、弟子たち(のちにはクリスチャン会衆になる)に、奴隷として使えました。
またイエスは、奴隷よりもさらに低い身分に貶められることになります。イエスは犯罪者として処刑されることになります。自分を神の子といったことや、自分を王といって国家を転覆させようとしているといったようなことが原因です。
今で言えば国家反逆罪といったところでしょうか。師であるイエスは国家反逆罪で処刑されてしまいました。最後にイエスは、神にたいして「どうしてわたしをお見捨てになりましたか。」といいましたが、神にも見捨てられたような状態で処刑されることによって、ご自分に関する預言を成就させました。
イエスは地上にいた間、人間として生きました。それも身分のとても低いような人間として生活しました。神の子であるという立場を利用したりはされませんでした。
イエスが人の子であるというのは、贖いとも大きな関係を持っています。それはまた今度です。