イエス・キリストの人物像 第12回 イエスの人柄「人の痛みを担う」

 イエス・キリストは思いやり深い人でした。ペテロを含めて、失敗した弟子を、優しく諭しましたが使途としての立場を奪ったりはされませんでした。ご自分がなくなる最後まで弟子たちを愛しました。

 イエスは預言の中で、多くの人の病気や痛みを担うことになっていました。イエスは、貧しい人たちや罪を持つ人たちにも、偏見を持ったりせず、神の王国を宣べ伝えました。

 イエスは、目立つところに立つことを嫌いました。さみしいとろこに言って、ひっそりと祈りをしておられる場面もたくさんでてきます。その反対に、パリサイ人は、人の見えるところで祈りや施しをして、善人とか恩人とか呼ばれていました。

 もしかしたら、神の是認を受けている「わたしたちに感謝しなさい」という雰囲気なのかもしれません。多くの人は見抜く事はできませんでしたが、イエスはパリサイ人たちの偽善に気づいておられました。

 それは、多くのことを言いはしますが、神の公正と憐れみを忘れて、罪ではない人を罪に定めていたからです。貧しい人たちや苦境にある人たちは忘れられています。自分を義と呼びながら、神の言葉を語った預言者たちを殺害してきたのです。

パリサイ人は、神の憐れみと公正を忘れて、罪ではない人を罪に定めました。

 イエスは、どうでしたか。イエスは、自己犠牲的な人でした。弟子たちに多くの重荷をのせたりはしませんでした。そうではなくて、イエス自身が出かけていって、王国を宣べ伝え、他の人の痛みを担いました。

エスは、自ら出かけていって、他の人の弱いところを担いました。

 イエスは保身的ではありませんでした。いつでも、神のご意志を行うことに焦点を合わせていました。

 世の中の会社では、出世欲が人の人格をおかしくしてしまうということがあります。上司から悪く見られると出世ができないので、上司に対して、何も言うことができません。悪いことを見ても、見過ごしたふりをしてしまいます。「正しいことを行う」ということではなくって、「保身を行う」ということが、決定の判断基準になってしまっています。

 もし「神の義」ではなくって、「だれかからよく見られたい」ということが、決定の主要な動機になってしまったら、きっと失敗します。それが動機になってしまったら、パリサイ人の偽善に近づいていくのではないでしょうか。

 自分の保身のためではなくって、イエスのように、時には身を投げて、他の人のために行動することができるとよいですね。

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