イエス・キリストの人物像 第20回 イエスの言葉「自分の敵を愛しなさい」
みなさんは、自分が悪いことをされたらその人のことをどうしますか。仲間の兄弟姉妹が、悪い人に言葉や行動で傷つけられたらどうしますか。
「なんてひどい人だろう」といって、その人の悪口を言ったり憎んだりしますか。「もう許さないんだから」と怒りをそのままにしますか。
イエスはどういわれましたか。こういわれました。
しかし,わたしはあなた方に言いますが,あなた方の敵を愛しつづけ,あなた方を迫害している者たちのために祈りつづけなさい。それは,あなた方が天におられるあなた方の父の子であることを示すためです
(新世界訳聖書 マタイによる書5章44-45節)
イエスは、敵に復しゅうをしなさいとは言いませんでした。反乱を起こしなさいとも、革命を起こしなさいともいいませんでした。憎みなさいとも言いませんでした。
反対に、敵を愛し続け、敵のために祈りなさいといわれました。なぜそうする必要があるかといえば、父の子であることを示すためです。
エホバ神は、ご自分に罪を犯し続けた人類のために、最愛のみ子を与えて愛を示しました。つまり、エホバはご自分の敵に愛を示したということです。
では僕たちが敵に対して憤ったらどうでしょうか。人間の不手際に対して憤ったらどうでしょうか。僕たちは、罪びとであったときに、イエスを通して、エホバから許しをもらいました。そうなのに、僕たちが自分の敵を許さなかったとしたらどうなのでしょうか。
エホバに愛されている子ならば、同じように愛することで、エホバの子であることを示します。人を憎むならば人殺しですと聖書は述べています。敵を愛するならば、父の子であることを示せます。
人を憎むならば、人殺しと同じ。
敵を愛するならば、父の子。
僕たちは「世の人はほにゃらら」という癖があります。「エホバの証人はよいわねー」という癖があります。でも、これは聖書では、良いとされる考え方じゃなくって、どちらかというと非とされる考え方です。
なぜなら人を見下して、自分たちを高める態度をエホバは喜ばれないからです。謙遜であれば、エホバを高めることができますが、傲慢であれば、エホバのお名前を汚してしまいます。
「憎むではなくて愛する」「見下すのではなくってその人のために祈る」というのが、聖書的な方法なんですね。難しいですかね。