パンとぶどう酒 第5回「過ぎ越し」
なぜイエスの血を取り入れると、死を免れるのかということを説明しますと前回は書きました。それは、イスラエル人をエジプトから脱出させたエホバの方法について調べてみるとその意味がはっきりとします。
話しはモーセが生きていた時代のエジプト。そこでは、エジプト人の奴隷としてイスラエル人は奴隷労働を行っていました。この奴隷状態は、イスラエル人にとってはとても大変なものでした。
エホバはご自分の民であるイスラエル人を顧み、エジプトの隷属状態から脱出させることをモーセに伝えます。モーセはイスラエル人の指導者として行動します。モーセは、今でいるイエス・キリストに当たる人ですね。
イエスは僕たちを罪の奴隷状態から脱出させるために遣わされましたが、モーセは、イスラエル人をエジプト人の奴隷状態だから脱出させるために遣わされました。
イエスは現在、クリスチャン会衆の指導者として天から導きを与えてくださっています。モーセも、神エホバと対面して、神の言葉を聞き、イスラエル人を導いていきました。
エジプトではファラオが支配していましたが。エホバはイスラエル人を脱出させるために、エジプトに対して10の災厄をくだします。10番目の災厄が下ったときに、頑なだったファラオの心は折れて、イスラエル人がエジプトから離れることを許します。
この10番目の災厄が「過ぎ越し」と関係しています。10番目の災厄はどんなものだったでしょうか。それはエジプトに住んでいる人の家に生まれた長男をすべて殺すという災厄です。人も動物も含まれます。
エジプトに住んでいる人ですから、当然イスラエル人も含まれます。けれども、エホバは、ご自分の民であるイスラエルにはこのような約束をしました。
家畜を一頭いけにえにしてほふり、その血を戸口の上部と2本の戸柱に塗っておくなら、エホバはその家の長男を殺すことを「過ぎ越す」という約束です。
そして、その血はあなた方のいる家の上にあってしるしとなるのである。それで、わたしがエジプトの地を打つ時、その災厄があなた方に臨んで滅びをもたらすことはない。
(新世界訳聖書 出エジプト記12章13節)
血はしるしと書かれていますね。エホバが裁きを行うときのために、見分けるしるしとなります。「血のしるし」があれば「過ぎ越し」て命を保つことができます。なければ、命は奪われます。
長男の命の代わりに、動物をほふって、その命でだいじょうぶだよということですね。
もうこれで、イエスの血を取り入れることの意味がわかりましたね。イエスはご自分を罪の贖いとして差し出しました。これによって代価は支払われましたが、血はそのことのしるしなんです。
つまり、イエスの血はしるしとなっていて、それを取り入れているならば、エホバは裁きの執行のさいに、過ぎ越すことができるということですね。それで、死を免れて永遠の命を得ることができるというわけです。納得ですね。
ブドウ酒を飲むということは、イエスの血を取り入れるということを象徴的に表すことになります。そして、イエスの血を取り入れるならば、それはしるしとなるので、永遠の命に至るというわけです。
もちろんただ飲むだけではだめで、イエスに信仰を働かせていることが必要です。記念式でブドウ酒を飲むということは、イエスの犠牲の意味を思い出すという意味があるのですね。そうして、記念式は、終わりに至るまでイエスに信仰を働かせるのに役立ちますね。
この過ぎ越しは、祭祀やレビ人の家だけが対象というわけではありません。エホバの民であるイスラエル人全員が対象です。過ぎ越しは、エホバの民全員が約束の対象となっているということを覚えておくと面白いかもしれません。