内側をまず清めそれによって外側も清くなるようにしなさい
イエスが宣教期間中に厳しくパリサイ人を批判しました。パリサイ人の特徴はどんなものだったでしょうか。それは外側を立派に着飾ったり、みんなに見えるように施しや祈りを行ったりして、注目や感謝を集めて自分たちが賞賛を得ようとしました。
パリサイ人は、神の命じたことを行っていると自負しながら、実際に行っていたのは人間の考えでした。エホバの証人自身も、世の宗教組織をパリサイ人に見立てて、自分たちを善い組織とするなら、みずからパリサイ人の罠に陥ってしまいますね。そのようにして転がり落ちたいとは思いませんね。善いのはエホバ神ですね。
自らを低めることによって、エホバ神が高めてくださるのが、とても嬉しいことです。そのようにしてエホバの証人はよいものになっていくんじゃないでしょうか。自らを高めて、エホバ神に頭を叩かれるのは、ちょっと恥ずかしいですね。
じゃ、どんな風にしたらいいんでしょうか。イエスはこういいます。
盲目のパリサイ人よ,杯と皿の内側をまず清め,それによって外側も清くなるようにしなさい。
(新世界訳聖書 ルカによる書23章26節)
イエスは外側をまず清めなさいとは決して言われませんでした。反対に、内側を清めることによって、外側が清くなるようにしなさいといわれました。
いつでも兄弟・姉妹の外側や、自分の外側ばかりを気にしているとしたら、ドキッとさせられる言葉ですね。外側というのは、人に見られる部分ですね。これを最初に気にするようになるなら罠になるんですね。イエスから見ると、それはパリサイ人的な考え方のようですね。
世の霊は外側を極端に意識させようと強く働きます。世の霊は、少しの外側の違いで、ひどく落胆させたり、ひどく悪いことのように言ったり、マナーができていないような言い方をします。神の霊は、反対に、内なる人を見ます。
イエスの助言に従えば、神の目から見て内側をよくしようと努めれば、それによって外側もよいものになるようです。反対にまず外側をよくしようとするならば、偽りの崇拝に陥ってしまうようですね。
とても考えさせられる聖句ですね。