むち棒で打ちたたくことの考察

 古代イスラエルの律法では、死刑がありました。エホバの律法に対して大きな罪、大きな違反を犯した人は、石打ちの系で処刑されました。たとえば人の命を故意に奪ったのであれば、その人は自分の命をもって償わなければなりませんでした。

彼らの違犯に対しむち棒をもって,
彼らのとがに対しむち打ちをもって注意を向けなければならない。
(新世界訳聖書 詩編23章4節)

 ここで注目したいのは、むち棒が違反に対応していることです。またむち棒はとがに対応しています。つまり、むち棒というのは罪に対する罰であったということです。

 ささいなことに対してむち棒を使うということは、神のご意志だったでしょうか。たとえば、私的なしつけにおいてむち棒で打つことは、神のご意志だったでしょうか。

 古代イスラエル人にとっては、むちで打つことは、私的なことがらではなく、エホバに対しての違反に対応していたように思えます。つまり聖書に明示的に書かれいる罪に対してです。

 エホバは、私的な理由で民を打つ諸国民のようではなくて、ご自分の律法に明示的に書かれた言葉によって、罪と罰を定めました。これは罪がなんであるかということについて、イスラエル人が理解し、また律法によって歩んでいくための助けとなりました。

 さてもし未成年が死にあたるような罪を犯したらどうなるでしょうか。この場合は、子に罰を与える責任は親にあったように思えます。死に値するような罪を犯したのであっても、未成年の場合は、親がむちで打つことによって、子どもは命を長らえさせることができたのではないでしょうか。

あなたがむち棒でこれを打ちたたくなら,彼は死なないであろう。あなた自身がむち棒でこれを打ちたたくべきである。その魂をシェオルから救い出すためである。
(新世界訳聖書 箴言23章13,14章)

 裁き人ではなくて、あなた自身が打ち叩け、そうすれば死なないとありますね。

 更生させるためにむち棒は役立つのではなくて、親によるむち打ちは、死刑に対するような罪に対する未成年に対する軽減として働いていたように思えます。

 キリストの登場以降は、モーセの律法が廃されましたから、義務のようにむち打ちを推奨することは、聖書的に間違ったことです。

 公正と憐れみについてや、いらだたせることなく規正を行っていきなさいということや、怒るに遅く、温和で柔和で自制心を働かせるということをいつも、考慮に入れる必要があると思います。公正と憐れみを知っていたら罪でない者を罪に定めることはなかったでしょうというキリストの言葉を思い出しましょう。

1. むち棒はエホバに対する違反に対応している。つまり、しつけの道具ではない。
2. 未成年に対して親がむち打つことは、死刑に値するような罪に対する軽減の規定(たぶん)。
3. モーセの律法が廃されので、義務のようにむち打ちを推奨することは、聖書的に間違ったこと
4. 子育てには「怒るに遅い」「温和」「柔和」「自制心」などの神の特質を実につけることが役に立つ

 むち打ちの呪縛から解放されませんか。同じことを繰り返してはいけないし、過去に行われていたことは聖書的でもないしね。