聖書を聖書で解釈するという方法

 「聖書で聖書を解釈する」これがエホバの証人が聖書研究者と呼ばれていたころに、エホバの証人が選んだ、聖書を解釈する方法。

 新世界訳聖書を開くと、真ん中の部分に、聖書のそれぞれの部分と関連のある部分が書かれている。すべてのページに、ひとつの聖句と関係のある聖句が列挙されている。

 これをみることで、たとえばイエスパウロが、ヘブライ語聖書のどの聖句について語っていたかということがすぐにわかる。またヨハネの啓示というの、聖書全体から言葉が引用されているけれども、それがどこにあるのかということがすぐにわかるようになっている。

 エホバの証人は、聖書解釈において、聖書の他の部分との関連性をとても大切にしてきた。

 時代によって言葉の意味は少しづつ変化する。だからひとつの言葉は、時代が変わるとまったく違うものを意味するということもある。だから、たったひとつの聖句だけを抜き出して、意味を解釈しようとしても、個人的な解釈や時代を生きている人の言葉のニュアンスに引っ張られた解釈になってしまう。

 でも聖書全体との関連性を見るやり方は、このような間違いに陥ることを少なくしてくれる。

 たとえば「清い」という言葉について考えてみましょう。僕たち日本人は言葉で「清潔」ということを思い浮かべると思う。でも聖書を読むとわかるんだけれど、「清い」という言葉は、清潔ということは意味しない。聖書では「清い」という言葉は「エホバから見て罪がない状態」を表している。

 聖書全体を読むと、その言葉がどんなことを意味しているのかが、少しづつわかってくる。関連性を調べるという読み方をすれば、間違いに陥ることを少なくできる。

 一方で最悪の聖書の読み方は、神の権威によって正当化するという読み方だと思う。聖書のある部分について結論できないときに、自分に神の権威が与えられているといって、強引に解釈を行ってしまう方法だ。神に権威が与えられている自分たちが解釈したのだから、正しいに違いないという読み方だ。

 また現在の制度を権威づけるために、聖書の言葉を利用することもよくない傾向だと思う。組織が主、神が従という聖書の読み方は避けたい。

 ぜひ「聖書で聖書を解釈する」という基本に立ち返ってほしいと思う。