ローマ8章19-20節 神の子たちの表し示される

 僕は、エホバの証人のいくつかの聖書の解釈は見直される必要があると考えています。特に問題があるのは、統治体は、聖書の言葉を、二つのグループに分けて当てはめようとする傾向があるということです。

 聖書を読むとある言葉は、ひとつのグループに、他の言葉は、もうひとつのグループに当てはまるという読み方を行うことができません。

 たとえば神の子という言葉を「14万4000人」に当てはめるか「大群衆」に当てはめるか区別をすることは聖書自体からは決して行うことができません。故意的に行わない限りは、区別をすることができません。

 今回はローマ8章19-20節を検討してみます。

創造物は切なる期待を抱いて神の子たちの表わし示されることを待っているのです。創造物は虚無に服させられましたが,それは自らの意志によるのではなく,服させた方によるのであり,それはこの希望に基づいていたからです。すなわち,創造物そのものが腐朽への奴隷状態から自由にされ,神の子供の栄光ある自由を持つようになることです。
(新世界訳聖書 ローマ8章19-20節)

 統治体は「神の子たち」という言葉で「イエス・キリストと14万4000人」を表していると解説します。「創造物」という言葉は「大群衆」を表していると解説します。

 でもこの解説は間違っているのではないでしょうか。19節を見てください。「創造物そのものが腐朽への奴隷状態から自由にされ,神の子供の栄光ある自由を持つようになることです。」と書かれています。

 つまり「創造物 -> 神の子」という変化が訪れるということを解説していますね。創造物は朽ちて死んでいくものでしたが、その状態から解放されて、神の子としての自由を持つという意味ですね。

 では、最初の聖句も「創造物 -> 神の子」という変化を示していると考えるのが自然だと思いませんか。少し言葉を補足してみます。

創造物(人間)は切なる期待を抱いて神の子たち(としての栄光)の表わし示されることを待っているのです。

 アダムは神の子であり、永遠に生きる見込みを持っていましたが、罪を犯したために、腐朽への奴隷状態に落ち込んでしまいました。「神の子 -> 罪を負った創造物」という変化ですね。

 パウロは、この反対を語っているように思います。つまり「罪を負った創造物 -> 神の子」という変化です。これは、特別なグループだけではなくて、全てのクリスチャンに当てはめてよいものだと思います。

 ですから、ローマ8章19-20節を読むときに、無理にふたつのグループに分割する必然性は何もないのです。