「人が天に住む」という概念は聖書にはない

 僕は聖書を繰り返し読んでいるけれど、「人が天に上る」とか「人が天に住む」という表現は聖書にはひとつもないように思う。関連聖句を吟味してみよう。

 聖書の表現が確実に意味していることは、イエスが天に昇ったということだけであって、イエス以外の人が天に昇ったという表現はひとつもない。エリヤは天に飛んでいくけれど、これは神の住まわれる天ではなくて、イエスが天に昇るということの、予表だと思われる。

 さて僕は、エホバの証人の聖書理解を進めて、大胆な聖書の解釈を提唱してみようと思います。それは以下の解釈です。

エスを含めて、すべての人間は地上に住む。

 こう仮定して、聖書を読む進めていくと、とてもすっきりと聖書が読めるように思います。

人が天に昇ったという記述は聖書にはまったくない

 僕が聖書全巻を読んだ限りでは、聖書筆者のすべての人は、人が復活する場所が地上だと信じているように思える。自分が天に行くと信じている人はひとりもいないように思える。聖書筆者が信じていることは、自分が地上から天に行くということではなくて、イエスが天から地上に到来して、共に住むということのように感じる。

 さて紛らわしい聖句について吟味してみましょう。ヘブライ語聖書では、人は死ぬと存在しなくなるという考え方が一貫しているので、人が天に住むという考え方はまったく存在しません。ですので、ギリシャ語聖書で天が扱われる部分を吟味するだけでよいでしょう。

王国が来ますように

 イエスは「人が天の王国に行く」のではなくて「天の王国が地上に来る」ということを意識しています。

あなたの王国が来ますように。あなたのご意志が天におけると同じように,地上においてもなされますように。
(新世界訳聖書 マタイによる書6章10節)

 カトリック教会やプロテスタントの方は、神の王国は天にあって、死んだ後に人間が入る場所だという風に考えていると思います。でも、聖書が伝えているのは反対だと思います。「神の王国が地上に来る」と考えたほうがつじつまが合います。

エス以外は、天に昇ったことがない

そのうえ,天から下った者,すなわち人の子のほかには,だれも天に上ったことがありません。
(新世界訳聖書 マタイによる書6章10節)

 イエス自身は、天から下った者、すなわちイエス以外は、だれも天に上ったことがありませんと言っています。

天にある家

 「天にあって永遠に続く家を持つ」という表現が、コリント人への第二の手紙の中にあります。

というのは,わたしたちは,たとえ自分の地的な家,つまりこの天幕が分解するとしても,神からの建物,手で作ったものではなく,天にあって永遠に続く家を持つことになっているのを知っているからです。この住居においてわたしたちはまさにうめき,わたしたちのための天からのものを身に着けることを切に欲しているのです。
(新世界訳聖書 コリント人への第二の手紙5章1-2節)

 コリント人への第二の手紙5章1-2節では、天にある家について書かれています。後半の聖句を見てみると「天からのものを身につけることを欲している」とあります。

 パウロは地上にいて「天からのものを身に着けたい」といっている部分に注目です。このときパウロは自分が天へ行くことを意識していないように思います。むしろ反対に「天から与えられる朽ちない体」を欲しているように思います。

市民権は天にあるの意味

しかしわたしたちについて言えば,わたしたちの市民権は天にあり,わたしたちはまた,そこから救い主,主イエス・キリスト[が来られるの]を切に待っています。
(新世界訳聖書 フィリピ人への手紙3章20節)

 市民権が天にあるということの意味は、将来天で住むということでしょうか。そうではなくて、地上にいながら、神の王国の市民権を持っているという意味だと思います。後半の聖句では「わたしたちは天に行くことを切に望んでいます」とは語られずに「天からイエスが来ることを切に待っています」とあります。

 聖書のどこを読んでも、イエスの弟子たちは「天へ復活する希望」を持ってはいません。そうではなくって、弟子たちの希望はいつでも「イエスが地上に来る」ことです。

エスが天から下られて、復活が起こる

 復活するときの様子をパウロは、テサロニケ人への手紙の中で語っています。

主ご自身が号令とみ使いの頭の声また神のラッパと共に天から下られると,キリストと結ばれて死んでいる者たちが最初によみがえるからです。その後,生き残っているわたしたち生きている者が,彼らと共に,雲のうちに取り去られて空中で主に会い,こうしてわたしたちは,常に主と共にいることになるのです。
(新世界訳聖書 テサロニケ人への手紙4章16-18節)

 ここでは「空中にで主に会う」とは書かれていますが「天に行く」とうことについては何も語られてはいません。また「天から下られると、死んでいたものたちがよみがえらされる」と書かれているので、この復活は地上で起こる出来事です。

天の召し

 ヘブライ人への手紙には「天の召し」という言葉がでています。

そのようなわけで,聖なる兄弟たち,天の召しにあずかる人たちよ,わたしたちが[信仰を]告白する使徒また大祭司,イエスを思い見なさい。
(新世界訳聖書 ヘブライ人への手紙3章1節)

 しかし「天の召し」という言葉は「天への召し」や「天での召し」を意味はしていないように思います。少し意訳を試みると「天の召しにあずかる人たちよ」は「神からの招待にあずかる人たちよ」という感じになると思います。

 ですからこの聖句も「人が天へ行く」ということを意味する必然性はないです。

天に属する都市は地上に下りてくる

 ヘブライ人への手紙には「天に属する[場所]」という表現がでてきます。

しかし今,彼らは,さらに勝った[場所],すなわち天に属する[場所]をとらえようとしているのです。ゆえに神は,彼らを,[そして]彼らの神として呼び求められることを恥とはされません。彼らのために都市を用意されたからです。
(新世界訳聖書 ヘブライ人への手紙11章16節)

 それでこの表現が「人が天に住む」という概念を表していると考えるかもしれません。ここでは天に属する場所というのは、都市として表現されています。

 ヨハネへの啓示では、人が天にある都市に行くのではなくて、都市が天から地上に下りてくるということが書かれています。

また,聖なる都市,新しいエルサレムが,天から,神のもとから下って来るのを,そして自分の夫のために飾った花嫁のように支度を整えたのを見た。
(新世界訳聖書 ヨハネへの啓示21章2節)

 聖なる都市が、天から地上にくだってきています。つまり、「人間が天にある都市に行く」という考え方ではなくて「天に属する聖なる都市が地上に下ってくる」という解釈のほうがすっきりします。

まとめ

 聖書の全編を読む限りでは、イエスの弟子たちは、イエスが天から地上にこられることを希望しているのであって、自らが天に行くことを望んでいるわけではないようです。「人が天で生活する」というお話は、聖書のどこを探しても存在していません。ヘブライ語聖書の筆者もギリシャ語聖書の筆者も、死んだ状態は、眠っているような無の状態であることを描写していて、天で生活するということを描写している箇所はありません。

 「天への復活を希望している弟子」は、聖書には登場しません。また「天」と「地」への二種類の復活があることをほのめかす箇所もないように思えます。

 「天への復活」という概念は、1世紀よりも後の時代に、伝統的なキリスト教に取り入れられたもので、1世紀当時はそのような考えは存在していなかったのではないかと思います。

天についていえば,天はエホバに属する。
しかし地はというと,[神]は[これを]人の子らにお与えになった。
(新世界訳聖書 詩編115編16節)