わたしの兄弟のうち最も小さな者
マタイ25章34〜46節はイエスのたとえ話です。趣旨は「イエス・キリストの最も小さな兄弟に対して親切にした人は、それだけイエス・キリストにも親切にした。イエス・キリストの最も小さな兄弟に対して、ひどく扱った人は、それだけイエス・キリストをもひどく扱った」というものです。
すると,王は答えて言うでしょう,『あなた方に真実に言いますが,これらわたしの兄弟のうち最も小さな者の一人にしたのは,それだけわたしに対してしたのです』。
(新世界訳聖書 マタイによる書25章40節)
ここで問題になるのは、この聖句で「わたしの兄弟のうち最も小さな者」と呼ばれている人たちはだれかということです。普通に読めば、これは「イエスに信仰を働かせている人のうちの立場の弱い人あるいは若い人」という意味になるでしょう。
ですから、宗教的な権威を持っている人に親切を行っていたとしても、立場の弱い人や若い人に対して親切を行わないなら、イエス・キリストに対して、親切を行ってはいないという意味の聖句です。そのような人は偽の崇拝を行っており、滅びに値するという意味の聖句です。「あなた方はこれら小さな者の一人をも侮ることがないようにしなさい。(マタイ18章10節)」と同じことを意味している聖句です。
しかし、統治体は「わたしの兄弟のうち最も小さな者」という言葉を「14万4000人のうちの残っているものたち」に当てはめます。「14万4000人のうちの残っているものたち」という言葉は、統治体を指しています。
つまりこの聖句は「統治体に親切にした人は永遠の命を受け、そうでない人は滅ぼされる」という風に適用されます。これは、統治体が自分の権威を正当化するために行う聖句の適用のひとつです。
これはイエスが言ったことはまったく反対なのです。イエスが言ったことは、宗教的権威(統治体、巡回監督)を持つ人に対して親切にしても、立場の弱い人たち(たとえば精神的に弱っている人、子どもたち、貧しい人たち)に親切にしなければ、滅びに値するということです。
人間には特権を崇める傾向があるから、イエスが注意を喚起してくれているのに、統治体はまったく逆の適用をしてしまっています。