小さな群れよ

 全てのクリスチャンを神の王国に入ることができますかという質問に対してはそうだと答えることができます。またすべてのクリスチャンは神の王国を受けることができますかという質問に対してもそうだと答えることができます。

 イエス・キリストが天で王権を確かなものとしてから、地上に到来されるとき、神の王国は地上にもたらされるからです。天にあるものも、地にあるものも、イエスの王権のもとに集められるので、神の王国というのは、地上も含んでいます。

 ですから、聖書を読むときに、この王国という言葉は、14万4000人と大群衆のどちらに当てはまるのだろうかと思って読む必要はないですし、恣意的に区別しない限りは、そのような区別は不可能です。

 では、今回は「小さな群れよ」という聖句を検討してみましょう。

恐れることはありません,小さな群れよ。あなた方の父は,あなた方に王国を与えることをよしとされたからです。
(新世界訳聖書 ルカによる書ルカ12章32節)

 さて皆さんは、この聖句をどのように読みますか。僕はこのように読みます。

 「あなた方」というのはイエスの弟子のことを指しています。つまり全てのクリスチャンです。後半部分は「イエスに信仰を働かせる者に、王国を与えることをよしとされたからです。」と読みます。

 「恐れることはありません,小さな群れよ。」という言葉は「あなた方は少数派であるけれども、恐れることはありません」という意味です。「小さな群れ」という言葉で、イエスは特定のグループを意味していたわけではありません。

 全体を意訳すると「少数派だけれども、恐れることはないです。なぜなら、わたしに信仰を働かせる者に、神は王国を与えることをよしとされたからです。安心しなさい。」という意味だと思います。

 では一方、統治体はこの聖句をどのように読むでしょうか。「小さな群れ」という言葉を14万4000人に当てはめます。この聖句はイエスが14万4000人に向かって語った聖句だといいます。

 さて、どちらが自然で、どちらが恣意的でしょうか。

 統治体の聖書解釈の問題点だと思える部分は、14万4000人に当てはまりそうな言葉を、ギリシャ語聖書から無理やり探してきて、それが正しい解釈だと言い張ることです。

 また以下のようなことも問題です。

 まず統治体は「忠実で思慮深い奴隷」と「油注がれた者」と「14万4000人」を結び合わせます。しかし、聖書中には、この三つを結びつけるのが正当な根拠はまったくありません。

 なぜこんなことをするのかといえば、忠実で思慮深い奴隷というのは、聖書中には一回しかでてきませんが、ヘブライ語聖書には油注ぎという言葉がたくさん出てきます。またギリシャ語聖書からは「14万4000人」を連想させる言葉を無理やり見つけることができます。

 そして「油注がれた者」に関する聖書の記述と14万4000人に関する(と統治体が主張する)聖書の記述から「忠実で思慮深い奴隷」を権威づけます。忠実で思慮深い奴隷という言葉は聖書で一回しかでてきませんが、「油注がれた者」と「14万4000人」を使えば、聖書中に数多くの権威の証拠があるということを信じさせることができます。(ものみの塔マジック!)

 エホバの証人の聖書解釈の9割は僕は正しいと思っていますけれど、統治体の権威を正当化するための聖書解釈の部分は100%間違っていると思います。