排斥と断絶が同じ処置になってしまっているという事情

 排斥の問題点は山ほどありますが、今回は、そのひとつである、排斥と断絶が同じ処置になっているという点を取り上げたいと思います。

 断絶とは、自分からエホバの証人を辞めることです。エホバの証人を辞めるように、長老に伝えた場合に「その人は断絶した」といわれるようになります。

 もともとは排斥と断絶というのは、制度として別のものでした。断絶した人は、集団で無視されるということはなく、断絶を表明した人は、家族との交流を持つことができていました。

 しかし、統治体は、ある時期に、排斥と断絶の処置を同じものにする変更を行いました。つまり、断絶した人を、排斥した人と同じように扱うという意味です。つまり、エホバの証人全員による集団無視です。「裏切り者は存在を抹殺する」。これが愛を語る統治体の本音でしょう。

 また、現在では、その人が排斥されたのか、断絶したのかということが、会衆の成員には知らされないようになりました。ただ演壇から「○○さんは、エホバの証人ではなくなりました。」と発表されます。

 現在エホバの証人には「みなし断絶」という恐るべき制度があります。たとえば輸血を受け入れた人を、その人は断絶の意思を表明したとみなすのです。このようにして、事実上は排斥を行うことができます。

 1998年ヨーロッパ人権委員会では、ブルガリア政府との間でブルガリアのJWは輸血を受けることを自由に選択できる、協会はそのことで制裁を加えてはいけないという調停がされます。

 これは、輸血による排斥処置を行った場合は、宗教法人格を得られないということを意味しています。

 節税のため宗教法人としての法人格をなんとしても得たいものみの塔協会は、その抜け道として「輸血を受け入れた人を、その人は断絶の意思を表明したとみなす」というみなし断絶の制度を始めたようです。なんてこった。

 統治体と法律部門は、合法的な範囲に収まるさまざまな手段を考え出しているようです。せっかく「世を利用しすぎないようにしなさい」という聖書の言葉があるのだから、きちんと考えてもらいたいものですね。