排斥をどんな風に無意味なものに変化させていくか

 排斥のテーマに戻りたいと思います。今日は、排斥をどんな風に無意味なものに変化させていくかという方法について書きたいと思います。

 排斥という言葉は聖書には登場しません。なぜなら、1世紀当時にそんな制度は存在しないからです。また審理委員会という言葉もありません。なぜなら、1世紀当時にそんな制度は存在しないからです。

 排斥というのは統治体が考え出した制度で、聖書由来の制度ではないです。ぜひ排斥という制度が、聖書のどこに登場するかを調べてみてください。すると、そのような制度はどこにも登場しないということを知ることができると思います。

 関連すると思われるような聖句を開くことができるかもしれません。けれども、制度としては存在していないということは、明らかだと思います。

 ですから、僕は排斥という制度をなくしていく方向で動きたいと思っています。「でもどうやって無くしてしていくのですか。」と質問があると思います。

 まずは、排斥という制度を骨抜きにすることがスタート地点です。実質的に排斥の制度を無意味なものにしてしまいます。

 やりかたは簡単で

排斥された人と話しをする

ということだけです。

 ただこれだけ。これをやるだけで、無意味にできます。僕たちの努力だけで、変化させていける。まずはインターネットで匿名で、排斥された人や断絶している人と、話ができる機会があれば、話をしてみましょう。

 また、とても勇気があって、うまく対処できる兄弟・姉妹は、集会にきている排斥されている兄弟・姉妹に声をかけてみるのもよいと思います。(でも気をつけて!長老は圧力をかけてくるかもしれない。そんなときは素直にいったん逃げましょう。でもまたしばらくしたら声をかけてを繰り返す。)

 こんなふうにして、僕たちは排斥を支持していないという、メッセージを少しづつ伝えていきます。するとどんなことが起こるでしょうか。エホバの証人が、排斥された人とコミュニケーションをとっているということが、外部の人たちや研究生の方がわかるようになってきます。

 そうすると、排斥を支持していないエホバの証人がいて、インターネット上で排斥された人とも積極的に会話しているということを、奉仕にやってきたエホバの証人の兄弟・姉妹に伝えてくれるということが起こります。

 今インターネット上でどんな会話がされているかということを、開拓者や長老たちが、いやおうなく調べたり、知らなければならなくなります。ですからインターネットというオープンな場所で、会話しましょう。それを継続してけたら、もっと多くの兄弟・姉妹が、語り合ってくれるんじゃないかと思います。