恣意的な排斥の危険が伴う問題。こんなことでも排斥になる。

 排斥制度の怖いところは、恣意的な排斥が、いつでも起こる危険性があるということです。疑わしきは罰せずというよりも、むしろ、疑わしきは罰せよという方針で、排斥が行われてきた現実があります。僕は、実感していますが、長老には、正しく人を裁く能力がないです。

 最近ブログに書かれた、ふたつの経験を紹介してみたいと思います。

長老に意見を言っただけで排斥された例

ついに主宰達と話し合うことになった。。。
そして
あっさりと、「排斥」になった。。。

排斥について 2(ジャムのブログ)

 この例では、長老と意見が異なっただけで、排斥にされたようです。

80歳の痴呆を持つ姉妹が排斥になった例

でもある時、その姉妹が 「宝くじ」を買っているところを
誰かに見られて、報告されたそうです。

何回か あったようですが、注意しても「将来が不安で」と
やめなかったそうです。
でも、これは明らかに痴呆症ゆえなんです。
それは、会衆のだれもが わかっていたこと。

でも、長老たちは

排斥 しました。

JW残酷物語・ある排斥(JW自然消滅ブログ  ~善き友に捧ぐ)

 統合失調症のことを論じたときにも書きましたが、判断能力が低下してしまう精神的な疾患にかかったときに、弱い人が、排斥されてしまうということを書きました。まさにこれは、そのようなパターンです。痴呆症であっても、外面だけを頼りに裁かれ、排斥されてしまっています。

排斥の問題に向かい合う

 僕たちは「排斥は愛ある取り決めです。」と統治体から言われるままに信じてきて、排斥の問題点について、これまでぜんぜん考えてきませんでした。僕の判断では、排斥はひどい制度です。すこしまとめてみます。

  1. エホバの証人全員で無視するという過酷な仕打ち。集団いじめであること。
  2. 審理委員会という名の宗教裁判で、排斥が決定されること。長老の裁量で決まり、公正が担保されない。
  3. 背教者として認定することによって、排斥を行うことができること。排斥制度は、言論弾圧に利用されている。
  4. 排斥と断絶を同じ扱いにすることによって、断絶した人を排斥した人と同じようにあつかうこと。
  5. 輸血した人を、断絶したとみなすことができる、みなし断絶という制度があること。
  6. 統合失調症や痴呆など判断能力が弱くなっている人が、排斥されてきたということ。
  7. 罪に対して罰を与えるという観点ではなくて、見せしめとして機能しているということ。

 僕は、排斥制度はなくしたほうがよいと思っています。排斥制度という制度は、1世紀のクリスチャン会衆には存在しないですし、誤審が起こってきたというのは、明らかな事実なので、裁きを正当化せずに、裁きを行う能力が足りていないという事実を受け止めたほうがよいと思います。

エスの言葉を黙想する

 イエスはこの点に関してなんと言われたでしょうか。イエスは、人には裁く能力が足りていないということを認識していて、裁きは父である神のものであると考えていました。弟子たちが、邪悪な者を除き去りましょうかと、イエスに言った時に、このように答えました。

それで,その家あるじの奴隷たちがやって来て言いました,『ご主人様,畑にはりっぱな種をおまきになったのではありませんでしたか。それなのに,どうしてそこに雑草が生えてくるのでしょうか』。彼は言いました,『敵である人がそれをしたのだ』。彼らは言いました,『では,わたしどもが行ってそれを集めることをお望みですか』。彼は言いました,『いや。雑草を集めるさい,小麦も一緒に根こぎにすることがあってはいけない。収穫まで両方とも一緒に成長させておきなさい。
(新世界訳聖書 マタイ13章27-29節)

 イエスは愛ある牧者でした。神の見方は「雑草を集めるさい,小麦も一緒に根こぎにすることがあってはいけない。」というものでした。悪い人たちを取り除こうとするときに、間違ってよい人たちを取り除いてしまうということを認識しておられ、そのような悲劇が起こらないように、共に成長させておきなさいと諭しました。

 排斥という制度は、イエスが言われた言葉と反対のことを行っているのではないでしょうか。僕は、はっきりといってしまいますが、

排斥制度とは統治体を防衛して、統治体の権威を維持するための仕組み

です。疑わしい人や意見する人を取り除いて、統治体による一致を守るための仕組みとして機能しています。聖書とはなんの関係もないです。