会衆の自立、家族の自立、個人の自立
今日は自立ということについて書こうと思います。それは、もちろん神の存在を無視したり、神の思いを無視するということはぜんぜん意味していません。
自立することは悪いことだと思いますか。自立すれば、一致してやっていけないと思いますか。自立を防ぐことには、どんなデメリットがあると思いますか。
聖書は、実は自立を推奨していると、僕は考えています。統治体が間違った意味で引用している聖句がいくつかあります。
それは
あなたがたに神の言葉を語った監督に従順でありない
親に従順でありなさい
という聖句です。
この聖句は、統治体の文脈では次のような意味で引用されます。
監督は権威があるのだから、不完全であっても、従うことには益がある
親には権威があるのだから、不完全であっても、従うことには益がある
権威者に対して、絶対的な服従に価値があるという教えです。でもこれは、僕は間違った解釈だと考えています。また、統治体の中央集権的な体制を強めるために、頻繁に利用されている聖句だと思います。
でもこれは、実は、違うことを意味している聖句であって、 それは
(パウロでも、統治体ではなく)会衆を運営している監督に従順でありなさい
(親以外の他の人ではなく)親に順々でありなさい
という、会衆の自立と家族の自立を語った聖句だと思うんです。他の聖句を引用すると、パウロはこんなことを述べています。
そして今,わたしはあなた方を神とその過分のご親切の言葉にゆだねます。
(新世界訳聖書 使途20章32節)
パウロ自身は、手紙を書き送りましたけれど、それは、引き続きパウロに従わせるためではなくって、神の言葉のもとにあって、自立してほしいと願っていました。パウロは、会衆がまだ赤子のようであったことを嘆いています。
パウロは父のような存在として、神の言葉を宣べ伝えましたが、大人になってほしいという願いを持っていました。
またパウロは次のような目標も持っていました。
こうして,実に,キリストの名がすでに唱えられている所では良いたよりを宣明しないことを自分の目標としたのです。それは,ほかの人の土台の上に建てることがないようにするためです。
(新世界訳聖書 使途15章20節)
パウロは、ほかの人の土台の上に建てることがないようにするためですといって、他の人々がイエスを宣べ伝えることを、否とはしておらず、肯定しています。パウロ派以外の人が、イエスを宣べ伝える活動をすることを、肯定しています。
またパウロ自身が、エルサレムにいる使途たちの支持ではなくて、聖霊に導かれて、宣べ伝える活動を始めたことも語っていますね。
統治体は、会衆から、家族から、子どもたちまで、自分たちに依存させて、中央集権的な管理をすることを望んできました。けれども、この方法は、会衆の自立、家族の自立、個人の自立を強く阻んでいます。
いつまでも子どものままでいさせるのではなくて、自立ができるように支援していってほしいなぁと思いました。だから「なんでも長老に聞きなさい」とそういうアドバイスは、あんまり役に立たないと思います。依存することじゃなくって、なるべく自立を目指ざしてほしいと思います。