人が集会のためにあるのではなくって、集会が人のためにある
エホバの証人の社会では、集会に出席するということが、大切にする価値の中で、最上位に位置しています。感覚でいうと、イエス・キリストへの愛よりも、大きなものになっています。
残念なことに、集まりあうということが人のためにあるのではなくって、集会のために人が存在するような状況になってきました。この集会至上主義とも呼べる状況を、緩和する必要があると僕は考えています。
イエス・キリストは次のように述べました。
安息日は人のために存在するようになったのであり、人が安息日のために[存在するようになった]のではありません。
(マルコ2:27)
それで、集会についてもこういえます。
集会は人のために存在するようになったのであり、人が集会のために[存在するようになった]のではありません。
(マルコ2:27)
人間のために作った制度自体が、巨大になって人間自体を服させてしまうということは、よくある現象ですが、エホバの証人の集会もこのような状態になっています。
ではどれほどまでに、この集会というものの価値がエホバの証人の社会の中で高いかを見てみましょう。
すべての集会と大会に出席することがバプテスマの条件
エホバの証人におけるバプテスマの条件というのは、集会への出席と密接に結びついています。長老や巡回監督は、バプテスマを受けてもよいかという判断について、すべての集会と大会に出席という部分を、非常に強く見ています。
ここをクリアしない限りは、バプテスマを受けることができません。
微熱があるくらいでは集会を休まないようにという巡回監督
最近は緩和されてきましたが、近年までは、多少しんどいくらいでは、大会や集会をお休みすることは、強い非難を伴うものでした。
巡回監督は、長老や奉仕の僕に対して「多少のことでは集会を休んではいけない」とか「37度程度の微熱くらいでは、集会を休んではいけない」ということを言っていました。この行き過ぎのために、体調不良で無理に大会に出席して、救急車で運ばれたり、死亡したりする例もあったようです。
日本支部はいつでも事件が起こってからの方向転換であって、問題が起こるまでは、巡回監督や長老を放置していますし、巡回監督や長老に権威を与えてもいます。そのせいで、おかしなことが、おかしなまま続いても、だれもおかしいとは言いだせない状況が、生み出されてしまっています。
集会を休んで旅行に行くことに罪悪感を感じる
集会をたまに休んで旅行に行くことでさえ罪悪感を感じるという兄弟・姉妹は少なくありません。これは「集会出席=善、集会欠席=悪」という価値観を、持つようになってしまっているからです。
でも僕は、そんなことは気にしないで、ときどき休んで旅行にでも出かけることをおすすめします。特に子供たちと出かける連休の旅行は、計画するのがいいと思います。集会のことは忘れて、神の創造物である自然や文化を楽しみましょう。
「集会出席=善、集会欠席=悪」という価値観を捨てませんか。集会に出席することは、よいことでも、悪いことでもありません。集会に欠席することは、罪悪感を感じるようなことではありません。集まりあうことが、人のためにあるのであって、その反対ではないです。
「集会出席=善、集会欠席=悪」という価値観で、兄弟・姉妹を裁くことはやめにしませんか。また、バプテスマの条件や、奉仕の僕や長老に推薦する条件にするのをやめませんか。