普通の子が普通に生活ができる会衆にする

 エホバの証人の子どもたちは、自分で、エホバの証人としてのライフスタイルを選んだわけではありませんから、普通の子どもとして生まれてきます。親の価値観や会衆の価値観を引き継いで生まれてくるわけではありません。

 僕たちは次のように考えることが善だと思い込んできました。それは、組織や会衆に子どもたちを従わせるということです。親や組織や会衆の価値観に、子どもたちを従わせることが善と考えてきました。

 でも、僕は反対のことを言います。罪に関しては譲歩するようにとはいいません。けれども、それ以外の部分で、子どもたちに譲歩してください。特に、子どもたちがどうしても嫌がること、どうしても必要としていることについては、よく耳を傾けて、実現してあげてください。

 研究生についても同じです。今までは、組織や会衆や司会者の価値観に従わせることが善だと考えてきました。けれども、必要なことは、罪ではない分野において、研究生に譲歩することではないでしょうか。

 聖書にはこうあります。

わたしたちは,彼がまずわたしたちを愛してくださったので愛するのです。
(ヨハネ第一4:19)

 つまり、神から愛されているという実感がなければ、神を愛することはできないということです。神に愛されているという実感は、子どもたちにとっては、どこから生じると思いますか。それは、第一に親であって、その次に生活をする場所です。

 次に考えて欲しいのは、親や会衆が子どもたちを愛しているという自己満足ではなくって、子どもたちに愛の実感がなければ、何の意味もないということです。

 「鞭で打ち叩くことは、子どもたちに愛を示していることになります。そうしなければ、ハルマゲドンで子どもたちが滅ぼされてしまうかもしれません」という愛は、もはや恐怖であって、愛ではありません。

 僕たちはいつでも愛を示しているという自己満足に慕っているような気がしています。「伝道をすることによって愛を示すことができます」といわれ、伝道することだけで、愛を示した気になっている。そんな傾向はありませんか。

 大切なことは、受け取る人の側の愛の実感であるということです。子どもたちが、実際に愛を感じているかということです。うれしいと思ったり、安心できると思ったり、落ち着けると思ったり、楽しいと思ったりできているかということです。

 大人から見た、子どもがよい子に振舞っていることの、満足感で終わっていませんか。子どもたちの心の声を聞きましたか。子どもたちは、心を打ち明けることが、何の意味もなく、否定されるだけだと悟ってしまうと、もう心を開かなくなります。そうなってしまうと、それは、損失です。

 普通の子が、普通の感情を持った(たとえば楽しく遊びたい、性欲を感じる、デートしたい)子どもたちが、後ろめたく感じるような会衆には、したくないです。罪に関しては譲歩して欲しいとはいいませんが、それ以外の部分で、譲歩してあげてください。

 立派な会衆は、もしかしたら、義に過ぎる会衆なのではないかということも、考えてみてください。