排斥は暴力装置だということを認識しよう

 排斥という制度をいったいどんなふうにたとえるとぴったりくるかなぁと考えていた。「みせしめ」とか「制裁」という言葉もいい感じだけれど、暴力装置という言葉が、ぐっとくる感じがする。

排斥は暴力装置

 僕がこんな風に言うのは、排斥は愛によるものではなくって、暴力的な方法によるものだからです。実際には、排斥に対して、だれも自然な愛を感じとることができません。

 自然な愛を感じとることができないから「排斥は愛ある取り決めです。」といいます。自然な感情を、理性の皮で覆うように求めます。僕もかつては、正当化しようとしていましたけれど、もうしません。

 鞭で打ちたたくことも同じでした。打たれている子供は、そこに何の愛情も感じ取ることができませんでした。けれども「鞭でたたくことで、子供に愛を示すことができます」という、組織の言葉によって、その行為が正当化されました。

 親はその行為が愛によって正当化されなければ、子供たちを打ちたたくことはできなかったでしょう。けれども「ハルマゲドンで子供が死ぬ」という恐怖のために「鞭打つことは愛だ」と信じて、鞭打ってきたのです。暴力行為を、愛によって粉飾するという行為が、どれだけ恐ろしいことなのか、そろそろ気づいてほしいです。

 そして、その行為を先導した人たちが、何の責任も問われずに、いまだに、油注がれた人として、誉れを受けているというのは、どういうことなのでしょうか。その人たちに向けられた批判によって、批判した人が、排斥されるというのは、どういう状況なのでしょうか。

 暴力的な行為が、愛という言葉によって、粉飾されてきました。排斥は、ひとりの人を集団で無視するという、暴力的な行為です。人に無視されるということが、どれほど心に傷がつくかということを考えれば、それを集団でなすということが、どれほど恐ろしいことかということは、想像がつくと思います。

 それで、僕たちエホバの証人は、愛を宣べ伝えているといいながら、実際のところ、暴力的な行為を宣べ伝えています。自分が排斥されるという恐怖から、他の人を排斥によって無視します。自己犠牲を口でいう人が、一番自分を守っています。これは、いじめられたくなから、いじめるという行為と同じではないでしょうか。

 鞭がなくなったのは、王国会館での虐待がひどすぎたり、死者がでたことによって、改善に向かいましたけれども、そんな被害者がでるまで、気づかなかったということが、そもそも感覚が狂っています。

 排斥についても同じです。感覚が狂っているんです。そろそろ「排斥は愛ある取り決めです。」という愛による粉飾をやめて、排斥が暴力行為だということに目を向けませんか。そうしないと、変わってゆけないです。