イエス・キリストが、主要な代理者であるとことについて

 どうして、イエス:・キリストが大切なのでしょうか。今回は、イエス・キリストが主要な代理者であるという点について考えてみたいと思います。

神はこの方を主要な代理者また救い主としてご自分の右に高めました。
(使徒 5:31)

 パウロがイエスのことを主要な代理者と呼んだとき、その心の中には、モーセのことを意識していたと思われます。

このモーセを,『だれがあなたを支配者また裁き人として任命したのか』と言って彼らが否認したこの人を,神は,いばらの茂みの中で彼に現われたみ使いの手により,支配者として,また救出者として遣わされたのです。
(使徒 7:35)

 ここで支配者と呼ばれている語句が、主要な代理者という言葉と関連させて適用されているようです。つまり、パウロイエス・キリストを主要な代理者と呼ぶとき、モーセが担っていた役割について、パウロは意識していると推定することができます。

 モーセは、神に指導者として選ばれ、イスラエルの民を代表して、神の前に立ちました。イスラエルの民全員を代理して、神の前にたち、神と話、神の言葉を聞きました。そして、神の言葉をイスラエルの民に伝えました。

 つまり以下の関係があります。

    主要な代理者
神 - モーセ(イエス) - イスラエルの民(クリスチャン)

 ここで、大切なポイントは、モーセの役割は、だれかほかの人間ではなくって、イエス・キリストが担っているということです。そして、もっと大切なことは、イエス・キリストだけが担っているということです。

主要な代理者としてのモーセの役割は、イエス・キリストだけが担っている

 イエス・キリストから任命されたとか、イエス・キリストの兄弟と自認する人が、担っているのではなくって、イエス・キリスト、この人だけが、担っています。

 この点において、歴史を見れば、自分が神から認められたという人が存在することが、以下に、パウロが述べていたことと、反対の事柄が生じているかということがわかります。

 人間は、さまざまな方法で、イエス・キリストの代理者という役割をもぎ取ろうとしてきました。

  • わたしたちは聖書時代の使徒たちにあたる -> モルモン教
  • わたしたちはイエスから忠実な奴隷として任命されている -> ものみの塔協会
  • わたしは、ペテロの後継者である -> カトリック教会
  • 聖書は不完全なもので、わたしは神から啓示を受けた -> いろいろなキリスト教
  • 王権は神から与えられたものである -> 王権神授説・ヨーロッパの国王
  • この征服は神のご意志によるものだ -> コンキスタドール・十字軍

 これらの人たちは、自分自身をイエス・キリストとは言いませんけれども、イエス・キリストから任命されたというトリックを使うことによって、イエス・キリストの権威を使おうとします。イエス・キリストの権威と役割をもぎ取った人が、神の権威を用いて、自分たちを高め、支配を行おうとしています。イエス・キリストが望んだのは、反対のことではないでしょうか。

 ですから、イエス・キリストだけが、主要な代理者であるという信仰は、大切な信仰です。神とクリスチャンの間に、イエス・キリスト以外のものを差し込んではいけないということだからです。

神とクリスチャンの間に、イエス・キリスト以外のものを差し込んではいけない

 クリスチャンの会衆には、本来であれば、上下関係や立場や特権といったものはなく、仕事や役割の分担があるだけです。だから「去年は書記の仕事をしたけれど、今年はステージ係をやろう」と、いえたり、考えたりすることができるのが、望ましいと僕は思っています。

 「去年は巡回監督をやったけれど、今年は、雑誌係をやろう。」といえるようになるといいですね。神の子としての立場を捨てて、弱い人間の立場に身をおいたイエスを尊敬できます。