組織を間にはさまなければ成り立たない友情について
エホバの証人は、他の人との友情を、組織を間にはさまなければ成り立たせることができません。あまりにも安易な友という見方があって、それは、「エホバの証人であれば友」という見方です。これは裏を返せば、「エホバの証人でなければ友でない」という見方に、一瞬で変わるということです。
友とみなされているように思えても、その友情は、組織を間にはさまなければ成り立たない友情になってしまっています。友との間には、いつでも組織というフィルターがあります。このフィルターを通して、その人が友かどうかを判断します。
これはすぐに友とみなせる半面、友でないとみなされるのも一瞬です。組織が、わたしたちにとって、彼はすでに友としてふさわしくなくなったといえば、その人との友情関係は終わります。
友が、どんなに苦しみに会っていようとも、たとえば排斥が決定されれば、その人は話すことはなくなり、友ではなくなります。それで、その人は、真の友でなかったことが明らかになります。その人は単に、組織というフィルターを通した友であったに過ぎません。
聖書にはこうあります。
真の友はどんな時にも愛しつづけるものであり,苦難のときのために生まれた兄弟である。
(箴言17:17)
どんなときにも愛し続け、苦難をも共にできる。
もし自分の子供が犯罪を犯して刑務所に入ったら、多くの親は子供に面会にいくでしょう。子供を愛しているからです。ほうってはおけません。いっぽうエホバの証人の長老は、この子供は罪を犯し、排斥されているので、できうる限り避けなさいといいます。さてどちらが愛なのでしょうか。