ものみの塔研究考察「集会出席という圧力について」

 2013年4月号のものみの塔研究「うみ疲れてはなりません」を引き続いてみて行きたいと思います。二個目の副見出しは集会についての記事になっています。間違いを指摘しますね。

励ましと崇拝のために集まる

集まりあうことは、クリスチャンの会衆が設立された後も続き、今も崇拝の重要な部分となっています。
(p28)

 ものみの塔協会は「集会出席は崇拝の一部です」という言い方をよくします。聖書には、こんな言葉は登場しませんけれど、ものみの塔協会は、非常によくつかう言い方です。言いたいことは、出席に集会することが、正しい崇拝の条件の一部だということです。

 たくさんの説明によって、僕たちは惑わされてしまいますが、集会出席にいろんな言葉を使って出席の圧力をかけることは、神への崇拝とはぜんぜん反対のことをしています。

 たとえば生み出した実のひとつを紹介しましょう。ここ5年くらい前までは、巡回監督や日本支部は、集会や大会には、多少体調が多少悪くても、出席するようにという圧力を、かけていました。具体的には、37度くらいの微熱であれば、集会や大会に出席するようにと言っていた巡回監督すらいたようです。

 集会出席崇拝というのが、どんどんどんどん高まって、体調不良のときでさえ、集会を休みにくいという状況ができあがってしまいました。体調不良のときでさえ、集会を休むことは後ろめたいのです。

 集会というものを、神聖視したために、個々の兄弟・姉妹が、ないがしろにされてきました。つまり、集会という偶像に仕えるために、個々の兄弟・姉妹が犠牲にされてきました。

 そして、結局生み出された実は、大会へ体調不良で出席したために、死んでしまった方がいるということです。この状況が生み出されて非難されてから、日本支部は、体調が悪いときは、大会を休むようにという方針に変更したと推測します。

 結局、悲惨な結果がでるまでは、方針がまったく転換できないという、悪い癖が日本支部、巡回監督にはあります。兄弟・姉妹の体を思いやるよりは、組織の方針を推し進めることが、日本支部や巡回監督にとっては優先順位が高いのです。

 次は注解について。

印刷された質問に答えたり、聖句の適用を述べたり、聖書の原則に従うことの知恵を示す経験を簡潔に紹介したりして、信仰を公に表明することができます。
(p28)

 「注解は、信仰を公に表明することだ」といいますが、実際に聖書にはこんなことは書かれていません。この言葉は、注解をさせるための、聖句のこじつけなのです。公にするというのは、他の人にイエスについて伝えるという意味で、集会で手を上げて注解することではないんです。

 なぜ注解をさせたがるかといえば、兄弟・姉妹が参加したほうが、ものみの塔協会の教えを刷り込みやすいからです。最初はへんだなぁと思っていても、参加すること自体に意義や面白さを見出したときに、内容のほうは受け入れてしまうという現象が起こります。

 つまり「注解はエホバへの信仰の表明だ」と信じさせてしまえば、研究用ものみの塔の内容がどうであれば、注解すること自体がエホバへの崇拝と感じてしまうので、兄弟・姉妹は参加するようになります。僕は、このやりかたは、ものみの塔協会の大衆コントロールの方法の一部だと推測しています。

 次は統治体への感謝をうながす文章です。

統治体の教育委員会は、全治のエホバの民を教えるための霊的プログラムの準備を監督しています。毎週の集会で健全な教えを受け入れられるよう、こうした備えが設けられていることに、本当に感謝できるのではないでしょうか。
(p28)

 組織崇拝は、まったく健全な教えではないのでやめてほしいなぁ。数千億の資産を中央に集める中央集権体制も、健全なあり方ではないので、やめてほしいなぁ。上から下への食料の供給ではなくって、それぞれの兄弟・姉妹が食料を供給しあうというのが、クリスチャンのあり方じゃないかな。

 それと、自画自賛で、自分に感謝を求める統治体は、どうかしていると思う。

 次にいきましょう。

神はすばらしい方であり、その方を賛美できるのは、実に大きな特権です。エホバは、わたしたちが神権的な集会に出席し参加することにより定期的な崇拝をささげるに値する方なのです。
(p28)

 特権意識によって、集会出席を促すのはよくないことだと思います。集会という行為自体は、エホバの崇拝なんかではありません。聖書が述べていることは「神は見えない方なので、霊と真理をもって崇拝しなければなりません」ということです。

 たくさんの文章に惑わされてしまいますが、大切なことは「思いと真実」をもって崇拝しなければならないということで、ある行為を行うことが崇拝ではないということです。

 集会出席が直接エホバの崇拝にあたると思い込ませて、神への崇拝を、ものみの塔協会が準備した集会への出席に、すりかえてしまうことは、罪なことだと思います。どうしてそのような偽りへと、兄弟・姉妹を導こうとしているのでしょうか。

 神権的なという意味は、前にも指摘しましたが、聖書や神とは何の関係もなくって「神が是認した人たちの取り決めによる」という意味です。ですから、神権的なものを尊重するということは、過度に人間的なものを尊重することにつながります。

 ものみの塔協会は「神権政治(theocracy)」を、研究用ものみの塔の各所に少しづつ埋め込んできますので、注意しましょう。

 最後の部分は、とても強い心理的なプレッシャーをかける部分になっています。

エホバがこのような邪悪な体制を滅ぼすときまで、わたしたちは忍耐しなければなりません。そうするためには集会は大切な備えです。あなたもそう考えておられますか。もしそうなら集会は、忙しくてもそのために時間を割くべき、「より重要な事柄」の一つとなるはずです。よほどの事柄がない限り、エホバへの崇拝において兄弟たちと結び合わされるこの機会を逸することはないでしょう。
(p28)

 みなさんはこの文章に不自然さを感じませんか。どうしてこの部分に、「邪悪な体制を滅ぼす」という言葉を利用しなければならないんでしょうか。どうして、「忍耐」という言葉を使わなければならないんでしょうか。

 どうして「忙しくても」「よほどの事柄がない限り」「逸する」なんて言葉を使わないといけないんでしょうか。

 これには意図があって、裁判で強制していないと主張できる表現を使って、兄弟・姉妹には心理的なプレッシャーを与えるという意味があります。つまり、言うだけいって、自分が責められたときには、責任を逃れるというテクニックなのです。

 わかりにくので書き直しますね。言いたいことは次のことです。

忍耐して集会に出席しなさい。忙しくても出席しなさい。それほど大切なものです。そう考えているべきです。よほどのことがない限りは出席しないさい。少しぐらい体が不調であっても出席しなさい。統治体の言葉を聞く機会を増やすことが、あなたの個人的な生き方よりも、はるかに大切なことです。集会に出席しなさい。

 そろそろ僕たちは、集会出席信仰を捨てませんか。集会という制度自体よりも、個人個人の人間関係を大切にしませんか。