組織と一緒に神を捨ててしまう必要はない

 組織が神であった人にとっては、組織に対する不信が高まってくると、神も一緒に捨ててしまうという傾向があるような気がしています。僕が、実感していることは、いくら宣教奉仕や、集会に行っていても、心の中には、エホバやイエスの存在が希薄だということです。

 なぜそう思うかといえば、集会や宣教奉仕に出るという行為自体を、神への崇拝だと考えている部分が強すぎるので、内面についての大切さを、忘れている気がします。集会にきなさい、宣教奉仕にでなさい、ということは何百回も聞くので、それを達成するとエホバへの奉仕を満足しているように勘違いしてしまって、内面を磨くという作業がすっぽり抜け落ちている気がします。

 組織批判をしている人に聞いてみたいですが、本当に自分の心の中に神はいますか。組織が神であったのであれば、組織不信が起こったときに、神もすっぽりと、心の中から出ていってしまうかもしれません。

 僕が組織批判をしているのは、組織という神に仕えることには、何の価値もないからです。組織という神から立ち返って、まことの神に目を向けてほしいからです。何かが組織されるということはあってもかまいませんが、それが崇拝の中心であったり、神からのものだといったり、巨大すぎたりするのは、好ましくないです。

 組織が崇拝の中心にしたり、神からのものだといったり、巨大になっていくのをほうっておくのは、結局は、組織を神としているということになります。

 一方、心の中で、組織と神を分離できておらず、組織がそのまま神であった人は、組織不信が、そのまま神への不信になると思います。組織がどうでもよくなれば、神もどうでもよくなってしまいます。

 そうではなくって、きちんと組織と神を心の中で分けて考えて、組織を心をから捨て去り、まことの神のもとに帰ることが、大切だと思います。組織だけを心の中から、えぐりとって捨てます。組織という腐敗のパン種が、エホバの証人の中で膨らんできました。それを捨て去って、神を心の中に残します。そして、神のもとに帰りましょう。

わたしのもとに帰れ。そうすれば,わたしもあなた方のもとに帰ろう」と,万軍のエホバは言われた。
(マラキ3:7)