ひげを生やしている人を容認する会衆にする

 長老や巡回監督にはずるいところがあって、はっきりとはいいませんが、ひげを生やしている人に対しては、うまい言葉で、ひげをはやさせなくしようとしていきます。それとなく、ひげを生やすことに、心理的な抵抗を覚えさせていって、ひげをそらせようとします。

 姉妹たちも、エホバの証人が内部的には、ひげを否定しているのをしっているので、たとえばひげをそったとすると、あらよい感じになったわねとそれとなく誉めはやします。

 短髪、長髪、ひげを、それとない誘導で矯正しようとするのが、現在のエホバの証人の社会です。これには、ベテルや地域大会における講演するときの規則というのが裏側にあって、それを、巡回監督や長老は、会衆に対して、強制しようとするために起こっています。

 長老たちは語りませんが、ひげ、短髪、長髪が、ベテルにおいて規則として禁止されているということを、知っています。裏側は規則にまみれているのに、表側ではそれが規則とは知らせないように、たくみに誘導しようとしていきます。これがエホバの証人の社会がもつ、誘導的な傾向です。

 しかしひげのどこがいけないのでしょうか。姉妹のうちの特定の人が、みっともない、なんとなく不潔ねとたとえ思ったとしても、それは、その姉妹が、その人を恋愛対象にできるかとか、好みとして好きかというだけでしょう。

 会衆の姉妹みんなで、ひげは不潔っぽいねぇとか、ちょっとおかしいとかいって、みんなで否定する必要はないです。裏側でそういううわさ話をするのはよくないです。自分の性的な嗜好として、うけつけないということを、心の中で思っていればよいと思います。ひげがあっても別によいという女性もいるからです。

 現在のエホバの証人社会は行き過ぎにおちいっているということを、自覚したほうがよいと思います。あごひげを生やしていたら、伝道者にもなれずに、バプテスマも受けれないというの異常な光景です。

 あごひげは罪なのですか。あごひげをそることが、罪の悔い改めなのでしょうか。あごひげをそることが、清くなるということなのですか。ベテルで決められた人間的な基準においてはそうでしょう。しかし、神においてはそうではありません。

 今エホバの証人の社会において、圧倒的にたりていないのが、多様性だと思います。外見において多様な人を受け入れるというところまでまだきていないです。長老や巡回監督は外見の一様性を求める傾向にあります。また姉妹たちは、若い姉妹に炊いて、外見に対して、あれやこれやと言いすぎて、傷つけたり、押さえつけたりしてしまう傾向があります。

 僕は、ひげを生やしている人を容認する会衆にしようという提案をまずしようと思います。これは、統治体にメッセージをおくらなくても、会衆の努力だけで成し遂げることができます。

ひげを生やしている人を容認する会衆にしよう

 ベテルの規則としてあるからといって、会衆がそれをまねする必要なんてない。反対に、ベテルに対して、それはおかしいんじゃないかと、言えるようにならなくっちゃね。

 長老や巡回監督は、ベテルのおかしな規則を会衆に持ち込むのではなくって、おかしな慣習をベテルに改めてもらうように、伝えなくっちゃならないんじゃないかな。



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