自分がしてほしいと思うことを、人にもしなさい
この聖句については、よく知られていると思います。
それゆえ,自分にして欲しいと思うことはみな,同じように人にもしなければなりません。
(マタイ 7:12)
でもうまく実践されないのはどうしてなんでしょうか。たとえば、嘘の証言によって、罪をかぶさられ、無理やり悔い改めさせることなんて、されたくありませんね。だから、自分がされていやだと思うのだったら、人にもしてはいけないですね。
少し考えが異なっただけで、全員から無視されるなんて、されたくありませんね。自分がされて嫌だと思うことは、人にもしてはいけませんね。でもどうして、こんな簡単なことが、できないんでしょうか。
聖書はクリスチャンの間での公平性について、とてもたくさん書かれています。お互いに足を洗うとか、もてなしあうとか、愛を示しあうとか、イエスを主として、みんなで並んで神に仕えましょうというのが聖書が伝えているメッセージです。
人間の間で支配関係や特権階級をつくっちゃだめなんです。支配関係や特権階級ができあがると、そこには傲慢、争い、嘘、偽り、虚勢、排除、さまざまな悪いことがらがでてきます。
イエスのメッセージの裏側には、いつでも、神の元で並んで仕えなさいというメッセージがこめられています。組織や特権や巨大なものへの愛は、イエスによって否定されています。イエスは、何を愛しなさいといいましたか。
「第一は,『聞け,イスラエルよ,わたしたちの神エホバはただひとりのエホバであり,あなたは,心をこめ,魂をこめ,思いをこめ,力をこめてあなたの神エホバを愛さねばならない』。第二はこうです。『あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』。これらより大きなおきてはほかにありません」
(マルコ 12:29-31)
これより大きなおきてはないとイエスは言ったのに、どうして個人や神を超えて、組織に対する愛を大きくしてしまったのですか。その愛のために、兄弟・姉妹や神への愛は、冷たく冷めてしまっています。巡回監督、長老たち、海老名ベテルの皆さん、どうしてことあるごとに、組織、組織といいうのですか。そのために、神と隣人への愛は、冷めてしまっています。
組織の清さを守るために、神と兄弟・姉妹は、ないがしろにされてよいのですか。組織は前進していきます。けれども、兄弟・姉妹は振り落とされていきます。それが愛なのですか。その向かっていく先は、シェオルですか。
イエスは、なんといわれましたか。小さな兄弟たちをつまづかせるものはどうなるのですか。
しかし,わたしに信仰を置くこれら小さな者の一人をつまずかせるのがだれであっても,その者にとっては,ろばの回すような臼石を首にかけられて,広い大海に沈められるほうが益になります。
(マタイ 18:6)
長老たち、巡回監督、海老名ベテルの兄弟の皆さん、組織による制裁を恐れつつ、エホバを恐れないのはどうしてなのですか。小さなものを排除して、つまづかせることは、あなたの今の生にとっては価値があります。特権を維持できるからです。けれども、それは本当に永遠の命のための食料となるでしょうか。
小さなものをつまづかせるものは、永遠の命には値しないのです。どうして、世の栄光を得ることのために、エホバを恐れることを忘れてしまったのですか。
長老たち、巡回監督、海老名ベテルの兄弟の皆さん、あなたがたは、あまりにも多くのものを背負いすぎています。その背中に背負った重すぎる荷物のせいで、身動きが自由にとれず、自分の現在の身の保身のために、愛に基づいて行動することができていません。
わたしのくびきを負って,わたしから学びなさい。わたしは気質が温和で,心のへりくだった者だからです。あなた方は自分の魂にとってさわやかなものを見いだすでしょう。わたしのくびきは心地よく,わたしの荷は軽いのです
(マタイ 11:29-30)
どうか今背負っているすべてのものを投げ捨てて、イエスの軽いくびきを背負ってください。そのくびきは軽く、さわやかです。イエスのくびきを背負ったなら、目の中にある垂木は取り除かれて、神と隣人への愛がどのようなものなのか、知ることができます。
「自分がされたくないことを、人にもしない」
どうかイエスの言葉を真剣な気持ちで取り入れてください。