清いものにとっては、すべてのものが清い

 僕たちは、いつでも多くのことを心の中で裁いています。あの人はどんな振る舞いをしているか、あの人はどんな服装をしているか、ひげがはえているか、あの人はどんな生活をしているか。あの人は、どんな特権を持っているか。これは、ものみの塔協会が、僕たちの心に植え付けた悪い癖でもあります。

 このような外面の特徴で、人間を判断して、その人を評価しようという悪い癖が会衆に蔓延しています。特に、巡回監督、日本支部の兄弟たち、長老は、この悪い癖を、強く実践しています。ぜひ改めてください。

 主であるイエス・キリストは、人を決して外面で見ない人でした。イエス・キリストは、民に対して外面を整えて、義なるものとして示していたパリサイ人の偽善を、見抜きました。

偽善者なる書士とパリサイ人たち,あなた方は災いです! あなた方は白く塗った墓に似ているからです。それは,外面はなるほど美しく見えますが,内側は死人の骨とあらゆる汚れに満ちているのです。そのように,あなた方もまた,確かに外面では義にかなった者と人に映りますが,内側は偽善と不法でいっぱいです。
(マタイ 23:27-28)

 それで「外面がなるほど美しく見える」人は、イエス・キリストにとってはどうでもよかったのです。それは、白く塗った墓のようであって、内面についていえば、ひどいものだったのです。組織や外面を清く見せながら、その内面や生み出している実がひどいものみの塔協会は、まさに現代のパリサイ人のようです。

 僕たちの目も、ものみの塔協会の腐敗的な影響を受けて、目が曇ってはいませんか。心の中で、外面を裁く人になってはいないでしょうか。他人の外面を裁く監視人のような人にはなっていないでしょうか。

 いったい何が清いのでしょうか。聖書にはこうあります。

清い[人たち]にとってはすべてのものが清いのです。
(テトス 1:15)

 あらかじめ、物質それが罪に定められているものというのは、そもそも存在しません。あるものや、ある習慣や、ある服装を、清いとか汚いとかいうときには、そこには、人間の歴史や偏見が多く混ざり、上積みされています。

 自分が何かを汚いと感じたときに、そこには、人間の偏見が働いていないだろうかと考えてみることが大切だと思います。たとえば、黒人を差別する環境で育ってきたという人というのは、黒人を差別する感情がなかなかとれません。黒人自体は、なんらの罪ではないのに、人間の習慣が、黒人を劣ったもの罪あるものにしてしまいました。

 僕たちも、実は日常の生活で同じようなことをしています。本来はなんら罪でも、汚れたものではないものにたいして、清いとかいったり、汚れているといったりします。エホバが創造された人に対しても、同じことをしているのです。

 もし自分の心が洗われて、自分の目の中の垂木を取ることができれば、世界は想像以上に清く見えると思います。多くのものは、汚れにまみれていましたけれど、その多くは偏見によるものだったことがわかると思います。