「互い」にという意味を考える
聖書では「互い」にという言葉がよく登場します。互いに行うことや、公平に行いあうことが、強く強調されます。これは上位から下位を支配するという考え方とは、まったく逆のものです。
聖書の強調点は、神の前で、人が人を支配することなく、並んで歩むという部分です。監督には支配する権威が与えられているといいますが、それはほとんど誤解です。監督とは、「見守るもの」というニュアンスです。
指導者は、イエス・キリストただ一人であり、その権威はエホバからゆだねられているものです。監督でさえも、イエス・キリストから見れば、群れの羊の一匹です。
ですから、互いに許しあい、互いに裁かず、互いに愛し合うということが大切です。上が下を裁く、上が下を許す権威があるという考えを持つのは、大きな間違いです。
では聖句をいくつかみてみましょう。
それで,わたしが,主また師でありながらあなた方の足を洗ったのであれば,あなた方も互いに足を洗い合うべきです。
(ヨハネ 13:14)
イエスは、弟子たちの間でだれが偉いかという論争が起こったときには、それがよくないことだと諭しました。イエスが、教えたことはその反対です。互いに足を洗いあう、つまり、お互いに奉仕しあうということです。
奉仕というのは、宣教奉仕だけをさすわけではないです。だから、どうか奉仕という言葉を考え直してください。聖書が教えているのは、お互いに奉仕しあうという考え方です。はっきりといってしまえば、宣教と奉仕という言葉は、直接は結びつきません。
兄弟愛のうちに互いに対する優しい愛情を抱きなさい。互いを敬う点で率先しなさい。
(ローマ 12:10)
互いに愛し合い、互いに敬います。敬うというのは、尊重して大切するという意味です。自分の言いたいことだけを一方的に言うのではなくって、互いに理解しあい、互いに尊重します。一方的に、相手に自分のしてほしいことを求めるのではなくて、自分自身について、まず考えます。
あなた方は,互いに愛し合うことのほかは,だれにも何も負ってはなりません。
(ローマ 13:8)
重いものは互いに背負いあいません。キリストの軽いくびきだけを背負います。愛し合うことだけを、背負います。それ以上の重荷を背負いません。
ですから,もはや互いに裁くことがないようにしましょう。それよりも,兄弟の前につまずきとなるものや転ぶもとになるものを置かないこと,これをあなた方の決意としなさい。
(ローマ 14:13)
互いに裁きません。人の前につまづきをおきません。つまづきをおいていると告発する人が、もっともつまづきのもとをおいていることは、とても残念なことです。その裁くという態度が、つまづきのもとです。
また善良さにも満ちていて,互いに訓戒し合うこともできるのであり,わたし自身あなた方についてそのことを確信しています。
(ローマ 15:14)
互いに訓戒しあいもします。権威による一方的な訓戒を行うことはしません。猛進や妄信は恐ろしいことです。だれかの文章を読んで(僕の文書も含めて)、それを全部信じてしまうとしたら、もうその人は、キリストのもとにはいません。
そして,互いに親切にし,優しい同情心を示し,神がキリストによって惜しみなく許してくださったように,あなた方も互いに惜しみなく許し合いなさい。
(エフェソフ 4:32)
そして、互いに親切にし、互いに同情を示し、神がイエス・キリストを通して、豊かに許してくださったように、互いに許し合います。一度の失敗で、1年も2年も全員で無視するような態度をとったり、そのような裁きをくだしてはいけません。
あなたには罪がないのですか。もし自分に罪がないというなら、神に対して罪を犯していることになるのです。自分には罪がないと思う人だけが、無視するという行為で、その人に石を投げつけなさい。
すべての人は、神の前にあって罪人なのですから、エホバが豊かに許してくださったように、互いに許しあいましょう。