イエスは罪を負っている人のために地上にきた

 自分は良い子でしたか。それとも悪い子でしたか。自分を責めるということがありますか。人や仲間や親から責められたことがありますか。信頼している人から裏切られたことがありますか。親や先生や長老たちや、友人や。

 聖書のお話をすると、イエス・キリストという人が、天から地上にやってきました。イエス・キリストは、何のために地上にやってきたのでしょうか。それは、罪を負っている人を救うためです。

 罪ってなんでしょうか。罪って結局のところなんなんだろう。罪という言葉の本来の意味としては、「神に背く」という意味があります。つまり、神に背を向けるということです。神のお考えとは反対のことをするという意味です。

 日常の生活の日本語では、罪という言葉は「国の法律で定められている犯罪を犯す」という意味で使っていますね。だから、人は罪を負っているといわれても、実感があまりないです。

 でもこう考えてみるとわかりやすいです。罪というのは「国に背く」ことだと考えてみてください。そして、国という言葉を神に置き換えてみてください。そうです。実はよくにた意味で、国という枠を超えた、人間にとってもっと普遍的なことがらがあるということです。

 聖書では「すべての人は罪を負っている」、つまり「すべての人が神に背いている」と書かれています。一般の人であっても、クリスチャンであっても、すべての人が神に背いています。このことを意識しておくことは、とても大切なことです。人間は例外なく神に背いているということです。

 だからこそ「自分は神からみて正しい、あの人は悪い」といって裁いたりしてはいけません。ぜひもってほしい意識というのは「自分もクリスチャンも世の中の人も含めて、すべてが罪人」という感覚です。例外なく、すべての人が神に背いているという感覚です。

 そのためにこそ、イエス・キリストは地上にこられたのですから。神は、イエス・キリストに信仰を働かせることによって、罪人である僕たちを、正しいものとみなしてくださるという決定を行ったからです。

 どんなに立派な人であっても、どんなに聡明で見える人であっても、どんなに清く見える人であっても、例外なく、その心は神に背いています。だから、すべての人は罪を負っています。

 自分を正しいとみなす人、そういう人のためにイエスはこられたのではないです。そうではなくって、罪人のためにこられました。

「丈夫な人に医者は必要でなく,病気の人に[必要]なのです。わたしは,義人たちではなく,罪人たちを招くために来たのです」
(マルコ 2:17)