組織によってひとりひとりが無責任になるということ

 エホバの組織というのは、益になるというよりも、クリスチャン会衆にあって大きな害となっています。組織を語ることは、有害なことでしかありません。組織、組織という人は、組織ばかりをみて、個人個人を大切にしていません。

 結局、その人が、組織という言葉を持ち出すのは、自分個人の責任を逃れるためです。「組織がこうしている」「組織の考え」というときには、間違いなく、それは、あなた個人の考えを語っているに過ぎないからです。

 自分の言葉を権威つけるために、組織という言葉を使って、正当化しているだけなのです。組織がこう考えている、みんながこう考えているという人は、自分の考えを、正当化するために、そんなふうに語るだけです。

 僕は、声を大にして言いたい。それは、あなた個人の考えに過ぎない。あなたが語ったことは、あなたが責任を持つべきで、組織の指示だとか、組織の考えなどといって、自分が責任逃れをしないようにしてもらいたい。

 扇動しているものみの塔協会が、60%くらい悪くても、30%くらいは、あなたに行動の責任がある。いつでも、自分たちの多数派、体制派と少し異なる人を、後ろめたい思いにさせたり、追い詰めたり、不順順な人と烙印を押したり、日本の会衆というのは、そういうことばかりをやっている。

 「これは組織の考え」といって、多数派、体制派の教えに、その人をいつでも従わせようとしている。集会では「少数意見が間違っているわけではありません」と教わっているのにも関わらずだ。

 過去にいじめられていた人でさえも、体制側に回ると、他の人をいじめるようになる。自分は、組織にいじめられるかもしれないという恐怖が、その人をいじめに加担させる。少数派に転落することは、生活の中では一大事なことなのだ。自分が標的になるかもしれない。

 そうして、無視などの行為によって、人を後ろめたく、追い込み、いじめに加担しておきながら、これは組織の方針だからとか、これはエホバのご意思だからといって、自分自身の責任から逃れようとする。自分は悪くないんだと、自分は悪くないんだと、思い込もうとする。これは、組織の方針なんだ、それでエホバのご意思なんだと。

 はっきりと僕は言いますけれど、そういうことをやり続ける人たちは、次のようになりますよ。

信じるこれら小さな者の一人をつまずかせるのがだれであっても,その者は,ろばの回すような臼石を首にかけられて海に投げ込まれてしまったとすれば,そのほうが良いのです。
(マルコ 9:42)

 エホバのご意思を行っていると思い続けながら、イエスの言葉には考慮を払わない。どうかそのようなことは、行わないでください。あなたは、組織という偽りの神から与えられる、今の命が大切ですか、それとも、まことの神が与えてくださる永遠の命が大切ですか。