「1 + 1 = 3」が間違っていると口にできない会衆はとても窮屈な会衆だ

 昨日の記事では、おかしいと感じる心をちゃんと持とうと書いた。でも残念なことに、今それをきちんと主張すると背教者とみなされて、排斥という憂き目にあってしまうかもしれません。どうして間違っていることを認めることをして素直になれないのだろうかと思う。

 まちがいっていることは、素直に認めて、謝って、許すという価値感を育てるということを、聖書には書いてあるんじゃないかなぁと僕は思っているのだけれど、どうしてみんな反対のことをしてしまうのだろう。

 長老や巡回監督は演壇の上から「1 + 1 = 3 であることは確信できます。」と語る。そしてこれを、現在の真理として大切にする。明らかに間違ったことを語っていながら、「これは現在与えられている真理」という惑わしの言葉を使って、聴衆をだます。自分の意見ではなくって、組織の意見だから、語っている長老に罪悪感はないらしい。

 その反対に、自分は困難なことを耐えて組織に忠実であるという誇りのようなものが芽生えるらしい。でもそれ間違っていますよ「1 + 1 = 2」じゃないですかという人たちは背教者とみなされ排斥される。これが、現在のエホバの証人社会の、一番おかしなところだ。

 「西暦前607年にエルサレムが崩壊したという事実はない。」ということを伝えて説得するのにすら、ものすごく大きなエネルギーが必要だ。どうして、こんなことを言い続けなくってはいけないのだろうと思うけれど、ものみの塔協会の思い込ませる作戦が、一歩勝っているということなのだろう。でも、言い続ければなんとかなるはず。

 これが「1 + 1 = 3」だということは次の二つさえ理解してもらえればわかる。でもこの説得は意外と難しい。

  1. 聖書自体からは、年代を確定することは不可能だということ
  2. 歴史的な証拠は、西暦前587年のエルサレムの滅びを示しているということ

 このふたつをよく理解してほしいです。この二つをきっちりと理解してください。聖書からは○○年という年代を確定することは、不可能であることと、歴史的な証拠は、西暦前587年のエルサレムの滅びを示しているということです。

 ここさえ理解してもらえれば、ここが起点となっている1914年のイエス・キリストの臨在と1919年の忠実で思慮深い奴隷の任命は、自動的に間違いだとわかります。足し算くらいは、小学生でもできるので。

 僕としては、長老や奉仕の僕の兄弟に、明らかに間違っている1914年という年代を演壇の上から口にしてほしくはないです。だから、1914年にイエスが臨在したという恥ずかしいことをいうことを、ぜひやめてもらいたいです。

 真実とともに歩みませんか。

終わりに,兄弟たち,何であれ真実なこと (中略) があれば,そうしたことを考え続けなさい。
(フィリピ 4:8)

 真実なこととは、過去も現在も未来も変わらないもののことです。そのようなこととともに歩みませんか。