「忠実で思慮深い奴隷」は信頼に値しない、任命すらされていない

 巡回大会前の開拓者の集まりや、巡回訪問中の開拓者の集まりで、今年は「忠実で思慮深い奴隷の信仰に見習うように」という話しがでていたようです。これは、統治体崇拝や組織崇拝を助長するとても有害な話だと思います。開拓者の兄弟・姉妹が、うまく話しに乗せられてしまわないように、この話の何が問題なのかを書いておきます。

突然忠実で思慮深い奴隷の対象が突然変わった

 兄弟・姉妹の皆さん、よく考えていただきたいのですが、教義が突然変わったときに、その対象まで変わってしまったすれば、今まで抱いていた信仰というのは、いったいなんだったのでしょうか。

 「忠実で思慮深い奴隷を信頼する」という話はこれまでもされてきましたが、この話の内容は全く変わらずに、忠実で思慮深い奴隷の対象だけが、すり変わってしまいました。

 たとえば、2013年までは、過去のものみの塔を読んでいるときに「忠実で思慮深い奴隷」という言葉がでてくれば、男女の油注がれたクリスチャンを想像していました。けれども、2013年以降は、「忠実で思慮深い奴隷」という言葉がでてくれば、それを統治体を想像して読むことになります。

 これが、おかしいことは、指摘されれば、すぐに気づくと思います。ものみの塔協会が、実際に行いたいことは、神への崇拝ではなくって、統治体への崇拝を行わせることなんです。

 統治体への崇拝を強めるという動機が最初にあって、聖書解釈はその目的のために歪曲されています。

統治体への崇拝を強めるという動機が最初にあって、聖書解釈はその目的のために歪曲されている

イエス・キリストは、ニューヨークに忠実で思慮深い奴隷が登場することを予言したのか

 これも少し考えてみてくれれば、結論が明らかにおかしいのはわかりますよね。ものみの塔のわかりにくい遠回しな解説によって、本質が見えにくくなってしまっていますけれど、はっきりといってしまえば、聖書やイエスの言葉を使って、統治体の権威を強めているだけなんです。

 今後、聖書の中の「忠実で思慮深い奴隷」という部分を指さしながら、「これは、だれを指しているか理解していますか」という質問を長老たちにさせて、踏絵を行ってくる可能性も考えられます。そして、正しく答えられなかった人を、背教者に認定して、排斥を行ってくるということも十分考えられます。ですので、よく注意してください。

 「忠実で思慮深い奴隷を信頼しなさい」という提案は、裏返して言えば、「忠実で思慮深い奴隷の教義を受け入れなければ背教者」という意味です。安全な提案ではなくって、非常に危険な提案です。

エスは忠実で思慮深い奴隷を任命していない

 もしイエス・キリストが、忠実で思慮深い奴隷を任命していなければ、どうでしょうか。もし任命していないとすれば、その人たちは、いったい何者なのでしょうか。それは、単なるうそつき、単なる詐欺師ではありませんか。神の名を汚す者ではありませんか。

 うそをつく人、二枚舌の人、神の名を汚す人に従っていきたいとは、まさか考えておられないでしょう。ですから、統治体が、イエス・キリストに任命されたかどうかは、大きな関心ごとでなければならないと思います。もし、それが嘘ならば、光の使いに変装した闇に従っていくことになるからです。

 もう一度、統治体が、忠実で思慮深い奴隷である理由を、自分の言葉で説明してみてください。もしその中に、明らかな矛盾があれば、統治体は、単なるうそつきなんです。

西暦前607年にエルサレムが滅びたのは何の根拠もないでたらめ

 僕たちは、ものみの塔の雑誌の中で、西暦前607年にエルサレムが滅びたという記述をよく見かけます。カレンダーの中にも、利用されていて、その年代が、正しいものだという刷り込みを行うとしています。けれども、西暦前607年にエルサレムが滅びたという何の証拠がなく、西暦前587年にエルサレムが滅びたという証拠があります。

 西暦前607年にエルサレムが滅びていないならば、1914年にイエス・キリストが王として任命されて、1919年に、ラザフォードたちを忠実で思慮深い奴隷として任命したという記述は、まったくのでたらめということになります。

 兄弟・姉妹たち、皆さんはまったくのでたらめにしたがって、歩んでいきたいですか。それとも、真実によって歩んでいきたいですか。でたらめをいう人たちに、進んで協力するのではなくって、せめて静かに生活していきませんか。

でたらめをそのまま言いふらさなければならない、あわれな巡回監督

 いくら仕事とはいえ、でたらめをいいふらすのに協力するのはやめたほうがいいと思います。良心的に許せないことがあれば、断わって、巡回監督のお仕事も卒業して、静かに暮らしていきませんか。

1914年を卒業する

 もし心の中に1914年に何か意味があると考えているなら、その考えは卒業しましょう。特に1914年に特別な意味はないです。特別な意味があると感じるように教えられるから、そう感じているだけです。1914年には何の特別な意味もないですし、1919年にも何の特別な意味もないです。

 じゃあ、終わりの日は、いつ始まったのか、イエスはいつ王に任命されたのか、説明してくれなければ困るときっというと思います。ですので回答しておきますと、終わりの日は、1世紀に始まりました。イエスの王への任命はまだ将来のことです。王権を受けて地上に来るのは、まだ未来のできごとです。これですっきりですね。

自分は任命されたという人ではなく、イエスの言葉に信仰を働かせる

 自分が任命されたという人はこんなことをいってきました。

1914年から1世代で終わりがやってくる

 もうこれがはずれた時点で、この人たちが、本当のことを言っていると思うのは、終わりにしましょうよ。単なる人間であって、うそつき、二枚舌、でたらめを愛する人たちの集まりですよ。信頼するのはやめにしましょう。信仰に見習うのも、危険ですよ。

 そうではなくって、イエス・キリストの言葉を信じませんか。

「ただし, その日, その時がいつであるかは, だれも知りません。天の御使いたちも子も知りま せん。ただ父だけが知っておられます。」
(マタイ 24:36)

 イエスの言葉をまげて、イエスの代弁者だと嘘をつく人たちではなくって、イエスの言葉を信じるのです。