開拓学校で教えられる危険な教え「長老たちが使いやすいように形作られなさい」

 僕はあきれてしまいましたが、人間を道具のようにたとえて、長老たちの道具として使いやすいように形作られなさいというようなことが、開拓学校や開拓者の集まりなんかで教えられています。

 開拓者と奉仕の僕は、長老たちから使いやすい道具のように、長老たちは巡回監督から見て、使いやすい道具のように、巡回監督は、支部委員から見て使いやすい道具のように、支部委員は、統治体から見て使いやすい道具のように、そのように扱われるようにしなさいと教えています。

 自由な意思を持つ個人としての価値は、そこでは何の価値ももっていません。ただ邪魔くさいというだけです。尊重されません。もっとも大きな価値は、上位の特権を持つ人にとって、道具のように扱われることができるかという価値です。

 反抗せず、無理をいわず、体力と気力の許す限り、宣教奉仕と会衆の仕事を行う、そのような道具のような存在、それが、ものみの塔協会が求めている人材です。

 若くて活動的な兄弟がちやほやされる理由は、組織の道具として努力しているかどうかに尽きます。宣教奉仕がんばっているわねー、会衆の仕事をがんばっているわねー、奉仕の僕になるのを期待しているわー、公開講演ができることを楽しみにしているわー。

 姉妹たちは悪気もなくいっているのかもしれませんけれど、組織の道具としての評価しかされなければ、それがなくなったときには、何も評価されないということです。そんなちやほやは長くは続きませんし、心からのものでもないでしょう。

 組織の道具としての評価ではなくって、まさにその兄弟、まさにその姉妹の存在を評価してほしいと思います。人は神の創造物なのではないのですか。ではどうして、この兄弟はこう、あの兄弟はこう、と心の中で評価しているのでしょうか。神を裁くとは何事なのですか。

 巡回監督の基準も、たいていはこんな感じです。使いやすい存在であれば、奉仕の僕に、また長老に推薦しますといいます。巡回監督に対して、意見を言うならば、あなたは不敬です、権威に反抗することが罪であることをわかっていないのですか、と脅迫します。

 こんな環境で、まともな感情形成ができるはずもありません。