逃れ場所としての居場所

 僕は集まるということについて考えているのだけれど、どういう場所がよいのかを考えている。巨大な組織として集まるという集まり方については、疑問符がつく。それはむしろ、聖書が示している集まり方とは、反対の形の集まり方ではなかろうか。

2,3人で集まる場所にはイエスが共にいる

 1世紀においてはクリスチャンの信仰というのは、逃れるような信仰ではなかったでしょうか。多数派の正統な信仰に位置する人たちからは、迫害を受けていました。組織内で正統を唱える人たちは、組織の考えを支持しない人を人たちをみじめに追いやり、また組織間においては、いがみあっています。

 そうです、組織という多数派に属せない人たちは、みじめに追いやられていたのです。しかし、ここでもやはりイエスは、希望の言葉を語ってくれています。

二人か三人がわたしの名において共に集まっているところには,わたしもその中にいるからです。
(マタイ 18:20)

 身をすり合わせるようにして、少しの人が集まっている場所でも、イエスは、その中で共にいてくださるというのは、とてもうれしいことです。

一時的居留者として生きる

 アブラハムは、異国の地にあって、一時的居留者として生活しました。信仰によって、約束の場所が与えられるということを知っていたからです。

彼らは約束[の成就]にあずかりませんでしたが,それをはるかに見て迎え入れ,自分たちがその土地ではよそからの者,また一時的居留者であることを公に宣明しました。そのように言う者は,自分自身の場所を切に求めていることを明らかにしているのです。
(ヘブライ 11:13-14)

 アブラハムは約束の成就に預かりませんでした。もちろん僕たちも、イエスが来るというところを見ることができないかもしれません。それでも、「それをはるかに見て迎え入れ」ています。

 自分を、一時的居留者として宣明する人は、そういうことによって、自分が、さらに勝る場所を求めていることをいい表しています。すばらしき組織の一員としての地位を求めるのではなく、自分を一時的居留者とみなす人たちは、そのことによって、神が与えてくださる希望の地に信仰を表します。

励ましあうために集まる

 このように、追いやられ、ちりじりの一時的居留者となっている身ですから、ぜひ小さな形で、集まるのがよいと僕は考えます。そういう場所を用意しておくことで、組織からの排斥に対しての、逃れ場所ともなります。

 組織の強大な排斥の権力は、人を痛めつけますけれども、逃れ場所を作ることで、クッションをつくることができます。皆さんも、そのようなことにはすでに気がついていて、そのような活動に励んでおられることと思います。