実を結ぶようにというたとえ話

 イエスはよく木や実のたとえ話をよくします。自分をぶどうの木にたとえて、木にしっかりと結びついていなければ実を結ぶことはできないと言われました。多く実を結ぶことは祝福、これが、聖書に流れる変わらない価値感のひとつです。

 種まきをしました。そして収穫を待ちます。実りが豊作であれば、それを喜びます。多くの実を結ぶことは祝福という価値観は、植物だけではなくって、動物や人間に対しても同じです。

 子を産むことは祝福です。神は最初にこういわれました。

「子を産んで多くなり、地に満ちて、それを従わせよ。
(創世記 1:22)

 英語の聖書ではこうなっています。英語のほうが、よりイエスの言葉と、創世記における神の言葉との関連性がわかりやすいです。

be fruitful and become many and fill the earth and subdue it.

 子を産むということは、フルーツが実ることにたとえられていて、果実を結んで、多くなるように。そして、地を満ちたらせよ。という感じですね。

 種まきをして、おいしい果実が、地の一面に広がる。そういううれしい気持ちが、神の人間に対する思いの中にこめられています。

 「be fruitful」という言葉には、子を作る喜び、セックスの喜びも、意味的には含まれていると思います。植物の場合であれば、雄しべと雌しべが受粉して、実を結びます。人間や動物も同じです。受粉して実を結ぶのが喜びなのであれば、セックスもまた喜びです。

 子を生み出すことが祝福なのであれば、その前提となる性行為、またその前提となる恋愛と結婚も、また祝福です。この一連の流れの中の何かを、汚れたものとして扱うのであれば、それは過ちだと思います。

 神は禁欲的な方ではないのです。たわわに実ることを喜ばれる方なのです。