第四回「罪科のない者を罪には定めなかったでしょう」 | 罪と死について考える

 人はより多くのことを罪に定めてきました。それがなんら罪ではないにも関わらず、多くのことに対して非難を与えてきました。その形は、いじめや怒鳴ること、またそれが許されない場合は、無視や避けるという形で現れてきます。

 たとえば、服装に関していえば、ある特定の場所や儀式で、特定の服装をしない罪です。「殺人をしてはならない」「盗んではならない」ということか何のかかわりもなく、異質な人を取り除くことを目的として、それは定められます。

 ある種の振る舞いに対して、それを罪に定めることは予定されていないのに、それを罪と定めて、人を非難します。これが、人間が長い歴史の中で行ってきたことです。

 どうして少数であるということが理由だけで、排除され、差別され、罪に定められなければならないのでしょうか。どうして馴染めないという理由だけで、悲嘆をかかえなければならないのでしょうか。

 多くのおきては負担となり、人の心を圧迫して、迫害される人を生み出しています。

 1世紀当時パリサイ人たちは、律法以上の事柄を罪に定め、圧迫や差別や排除をもたらしていました。パリサイ人は、立派な宗教指導者、義者として知られた人たちでしたが、イエス・キリストは、その偽善について見抜いていました。

しかし,『わたしは憐れみを望み,犠牲を[望ま]ない』ということの意味を理解していたなら,あなた方は罪科のない者たちを罪に定めたりはしなかったでしょう。
(マタイ 12:8)

 人は外面を罪に定めますが、神は内面をご覧になります。神は憐れみを望んでおられ、犠牲を望んでおられるわけではありません。一致するための「いけにえ」を望んでおられるわけではないのです。

 人は一致することのために「いけにえ」を生み出してきました。「いけにえ」に定められたくなければ、従え。特定のことを罪に定めることによって、自らの善を主張してきました。

 しかし「神の義を第一に求めなさい」とイエスは言われ、もう「いけにえ」が捧げられないために、自らが「いけにえ」となられました。イエスを愛するのであれば、もうだれかを「いけにえ」に捧げることに加担してはいけません。



罪と死について考える