第五回「あらゆる人は神の栄光に達しない」 | 罪と死について考える

 自覚すべきことは、人は罪の内にいるので、だれひとりとして神の栄光には達し得ないとうことです。人間の視線というのは、あの人は優れているとか、あの人は劣っているとか、そのような視線に満ちています。

 人は、どんなときでも、あの人は善いとか、自分は善いとか、この人は悪いとか、そんなことばかりを気にしています。富の差によって、人間の価値は変わります。貧富の差によって、人間の価値は変わらないというのは、表面的な願望であって、実際の人は、男性でも女性でも、富を持っている人間に、大きな価値を見出しています。

 しかし、すべての人は、罪のもとにあります。つまり、すべての人は、血と罪にその手も、心も汚されているということです。成功者の栄光は、輝きを放ちます。しかし、普通の人の神に対する賛美は、貶められたままです。

 富や栄光で命を買うことはできません。いくらお金をもうけても、いくら栄誉を得ても、それで、命を買うことはできない。なぜなら、人は、罪のうちに落ち込んでおり、罪の結果は、死だからです。

 善なる人も、悪に加担することによって人からの栄光を得た人も、その終局は死であり、去っていくところは同じです。早かれ遅かれ、すべての人に待ち受けているのは、死であり、逃れることのできない終局です。

 あらゆる富もあらゆる栄光もすべて朽ちゆく。死はすべてを飲み込んでいきます。けれども、神は、死を望んでおられるわけではありません。

 罪の結果あらゆる人の手が汚れ、血にまみれていたとしても、神は「生きてほしい」と言われます。

 皆さん、あなたがたは、実際は征服者の子孫なのです。ある時期に、原住民から土地を奪い征服を果たした人種の子孫なのです。血は受け継がれ、罪は引き継がれています。

 自らの善を誇る前に、どうか自分の手についている罪と血をご覧になってみてください。その罪と血のゆえに、死が待ち構えています。



罪と死について考える