「生きてほしい」という神の気持ちは類推できる

 神は「生きよ」といわれます。

「『「ときに,わたしがあなたのそばを通りかかり,あなたが血にまみれて[足を]ばたつかせているのを見,血にまみれていたあなたに,『生きつづけよ!』と言った。そうだ,血にまみれていたあなたに,『生きつづけよ!』と言ったのである。
(エゼキエル 16:6)

 神にとっては人は永く生きるはずでした。しかし、罪の結果、神が想定していたのとは違って、ものすごく短い期間で死んでいきます。幼年のまだ若いときに、子供が命を奪われるときのように、そのような感覚が神にはあるのではないでしょうか。

 「親の心、子知らず」といったものですが、実際に自分が親の立場になってみて、わかるということも多いものでしょう。自分の子供が、まだ若いときに、死の危険にさらされていたとしたら、死んでほしいと思う親はいません。

 親は子供に「生きてほしい」と望むものです。「人は神に似せて創られました」から、その感覚によって、神の気持ちも類推することができると思うのです。

 そのような観点から「命」や「生」について考えてみてほしいとも思います。死にゆく子が、放っておいてくれといったとして、放っておくならば、親でしょうか。

 神が父と呼ばれているのは、イエスの父という意味だけではなくって、人の親だからです。家出した息子を、無理やり連れ戻そうとはしませんけれども、帰ってきたときのために、準備をしてくださっている、暖かい親なのです。また、戻ってくるようにと呼びかけてくださる親でもあります。

だが,わたしたちはとにかく楽しんで歓ばないわけにはいかなかったのだ。このあなたの兄弟は,死んでいたのに生き返り,失われていたのに見つかったからだ』」。
(マタイ 15:32)