キリストを再びはりつけにする人たち

 キリストは罪を犯さなかったのに、自分を「神の子」「イスラエルの王」と呼んだ罪で、死に処せられました。罪のない人を罪に定めるこれが、世の傾向としてあります。

 ある宗教団体に所属していることが、世から逃れることなのではなくて、罪のない人を罪に定めないということが、世から離れているということなのです。

 もし、神を崇拝していると唱えながら、罪のない人を罪に定めて無視したり、みじめな思いにさせているとしたら、それは、みせかけの崇拝であって、邪悪な世の一部を構成しています。

 ひげを生やしている人を悪い人のようにいい、ひげをそらせようとたくらみ、ひげをそらなければ、特権は与えられませんと制裁を加えている宗教指導者たちは、もしいるとすれば、それは、邪悪な世の一部です。

 どうして「よいおひげですね」と言ってあげられないのでしょうか。どうして、そらせようと、心の中でたくらんでいるのですか。いったい、そのことの何が罪なのでしょうか。

 たくさんのことが罪に定められています。「遅くまで働かない罪」「村の伝統に従わない罪」「スポーツが苦手な罪」「がり勉の罪」「特徴的な容姿の罪」「貧乏の罪」「黒人であることの罪」。

 僕はいいましょう。「殺人を犯してはならない」「盗んではならない」「だましてはならない」「淫行を犯してはならない」これくらいで十分なのです。そして、それは「あなたは隣人を愛さねばならない」にさらに集約されます。

 このおきてを乗り越えて、罪のないことを罪に定めるならば、僕たちは、もう一度、自らの手でキリストをはりつけにすることになります。なぜなら、キリストは、罪がなかったのに、罪に定められたからです。

 罪のない人を罪に定めるならば、それは、キリストをはりつけにしているのと同じです。