互いに罪を告白して、許しあうということ

 僕は、罪について語るということは、悔い改めの感情も含まれていると考えています。それは、自分の恥ずかしい部分だからです。秘密を持ち合って、お互いを監視しあうというのは、非常に窮屈です。そんな窮屈な場所には長くはいれません。

 ある宗教の宗教指導者は、罪を犯しても、3年間隠しとおすことができれば、宗教指導者としての立場を守ることができます。一方、若くして罪を犯して、告白した人を、全員で一生無視するという虐げを行っています。

 不都合な人を排除して、3年間自分の秘密を守ることができれば、その宗教指導者は、立場を守ることができます。こんな宗教があったら嫌だと思いませんか。きっと、それは大いなるバビロンの一部なのでしょう。

 もし罪を犯してしまったとしても、互いに罪を告白して、素直に許しあうことができるという関係があれば、そんな場所のほうがずっと気持ちが楽だと思います。(もちろん、これは罪を犯す免罪符としてではありませんよ。)

そして,互いに親切にし,優しい同情心を示し,神がキリストによって惜しみなく許してくださったように,あなた方も互いに惜しみなく許し合いなさい
(エフェソス 4:32)

 この互いにという関係がとても大切です。特権階級は、どんなに多く間違っても、多く許される、立場のない人たちは、小さなことでも許されずに、排斥される。もしそのような場所であったら、それは窮屈なだけです。

 互いに許しえる場所が、心地よい場所だと思います。互いにということが、とっても大切です。特権階級だけが、許す権利を持っているわけはありません。神とキリストを信じる人すべてが、互いに許しあいます。キリストが牧者、みな、その羊だからです。