スーツは家の人にとっては見苦しい場合が多いと思う
僕は、スーツ強制伝道とスーツ強制集会は、やめたほうがいいと思っています。スーツとネクタイを付けている人は、自分のことを立派だと思っているかもしれないけれど、それは、自分の価値観であって、訪れた家の人の価値感とは異なると思います。
もちろんスーツをよいと思っている人はいる、けれども、それと同様に、スーツをよいと思っていない人もいる。僕は、伝道にでかけていってスーツを評価されたことはないが、反対に「どうしてスーツみたいな服をきているか」といわれたことはあるし「怪しい人がいる」と親に通報されたこともある。
それって、結局、多くの人は、スーツを着た集団というものに、良い印象を持っていないということだ。自分たちでは、世の者ではない、つまり立派だ、と思っているかもしれないけれど、家の人から見たら、いびつに見えているかもしれない。そういうことを、意識してほしいと思う。
奥様方は「あら、素敵ね」というかもしれない。けれども、僕たちが伝道する人というのは、そういう種類の人だけじゃない。パンツとシャツで過ごしているようなおじさんかもしれない。そういう人に対しては、もっとゆっくりした服装を着ていたほうが、話しやすいんじゃないかな。こういう発想をしたほうがいいと思うんだ。
スーツ強制集会と、スーツ強制伝道は、いまや、害のほうが大きいと思う。外面ばかりにこだわって、内部とか内面をよくしなかったから、今みたいなジリ貧を招いていることをもっと自覚したほうがいいと思います。いくら立派なスーツを着ていても、内面が、性的虐待保護組織だったら、何の価値もないよ。
僕は、日本人の日常生活に、合う格好をしたほうがよいと思っています。アメリカの白人の一部の地域の風習を世界中に広めるのではなくって、その地域の日常生活に、あわせた服装をするのがよいと思います。
パウロはこう語っています。
こうしてわたしは,ユダヤ人に対してはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人をかち得るためです。
(コリント第一 9:20)
パウロがこう語っているように、自分たちの習慣(たとえばスーツとネクタイ)を中心に考えるのではなくって、キリストを宣べ伝えるために、住んでいる人たちの風習に対して譲歩しています。僕たちは、キリストを宣べ伝えるために、日本人に対しては、日本人のようになるのです。つまり、意固地になるのではなくって、多くの面で、譲歩します。
兄弟・姉妹たち、服装に対して意固地になるのではなくって、心を広く持ってください。そうではなくって、キリストに対して意固地になることによって、服装などの他の部分に関しては、寛容であってください。キリストを宣べ伝える妨げを置かないことを決意としてください。